「神の子と悪魔の子」 創世記 4:1-16 Ⅰヨハネ 3:7-18 (2013.11.3)

◆ 神の子と悪魔の子(堕落)
今日の礼拝は、召天者を記念して共に守ります。当教会の召天者の中には、召されてすでに50年近くたっている方が居る一方、まだ1年にも満たない方もおられます。それぞれが神さましか知り得ない限りある人生を地上で送って来られました。確かなことは、召された者は皆、今は天にあって神の子とされていることです。

◆ 天上にある平安-地上における執着心
 このようにキリスト者にとっての希望は、地上の事柄だけに終始するのではなく、天に繋がっています。つまり、キリスト者は究極的には死の先に希望を置いているということです。キリスト者にとっての死は、永遠の命に入る通過点にすぎません。
 ですから、地上での命の終わり(死)は、信仰者にとって、神と共にある永遠の安らぎの世界に入ることです。そこには、黙示録が示す真の平安で満ちています。「見よ、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」<21:3~4>
 このことを知るならば、わたしたちはこの世の生に執着する必要はなくなります。
元々、わたしたちは神にあって命を与えられ、裸で生まれ、裸でその神の下に帰る存在です。<ヨブ記1:21> では、私たちはなぜこの世に執着するのでしょうか。
 それは、私たちは内に“罪”を抱えているからです。罪とは神の存在を忘れさせる悪の力です。聖書は神を見失うことから来る罪の具体的リストを挙げています。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別等。」<マルコ7:21,22> 私たちは、これらの罪の中から逃られません。

◆ 原罪-罪を支配できない人間
この罪(悪)が、地上にあって生きる者を苦しめます。罪から来る災いはその人だけの問題ではなく、その人の心の中から出て、他の人をも汚すことになります。
 聖書は人間の中に原罪としてこの罪が入り込んで来たことを告げています(何故かは分かりませんが)。それはカインによる、人間の犯した最初の殺人事件の物語に明らかです。<創世記4:1~12> アダムとエバからカインとアベルという兄弟が生まれました。カインは畑を耕す者、アベルは羊を飼う者として成長します。やがて、兄カインは土の実りを、弟アベルは羊の中から肥えた初子を持って来て、神に献げました。神はアベルとその献げ物を顧み、カインとその献げ物を顧みなかったと聖書は記します。カインは神に対して怒り、顔を上げませんでした。それを見た神はカインに、お前のしたことが正しくないなら罪が待ち伏せている、お前はそれを支配せねばならないと言われました。しかし、その警告にも関わらず、嫉妬に狂ったカインは弟アベルを殺してしまいます。それは、神に対して決定的な罪を犯したことを意味します。ここに、罪を支配し切れない、人間のありのままの姿があります。
 
◆ 人のなすべきこと-神に立ち帰ること
私たちは、この物語を通して地上にあってなすべきことは何かを告げられています。それは、悪を犯させる罪を支配することです。では、それは可能でしょうか。
 答えは、否です。人の心の内から悪を取り除くことは不可能だからです。カインの犯した罪を、殺人とまでは至らなくても私たちもまた日々犯しているのです。先ほどのマルコで語られていた悪のリスト、自分の内には一つもないという人が居たら、それこそ大嘘つきです。昨今のニュースは人間の犯す罪の結果に溢れています。
 では、私たちはどうしたら罪を支配することが出来るのでしょうか。そのヒントが詩編51編にあります。これはダビデ王の悔い改めの詩編とよばれます。ダビデは家臣たちが戦いをしている最中、宮殿の屋上から一人の女性を見かけ、これを自分のものとしようとします。そのためには、ダビデの忠実な家臣であるこの女性の夫が邪魔になります。それでこの家臣を戦いの最前線に送り、合法的に殺しました。
 首尾よく思いを遂げたダビデでしたが、神は預言者をダビデの元に送り、彼の犯した罪が、いかに神の御心にそぐわないものであったかを告げます。神の怒りと悲しみを知ったダビデは、自分の犯した罪の大きさに愕然とせざるを得ませんでした。
  
◆ 悪魔の子から神の子へ-キリストの執り成し
さて、大事なのはここからです。ダビデは即座に神に対して、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事をと見られることをしました。」<詩51:6> と犯した罪を正直に告白しています。その女性に謝ったところで夫である家来の命は戻ってはきません。赦しは神にのみあります。自分の犯した罪を悔い改め、神に立ち帰ることによってしか罪が赦されることはないのです。人間が罪を支配するというのは、結局、人間が神に立ち帰ることに他なりません。それしかないのです。
 人の心の中には、神を慕う思いと悪に引かれる欲とが同居しています。つまり、神から生まれる“神の子”と罪を犯す“悪魔の子”が同時にいるということです。どちらの子として生きるかで、その人の人生における祝福と呪いが分けられます。
その岐路に立っているのがキリストの十字架ということができるでしょう。わたしたちの内にはいつも悪の芽があり、その芽を出す機会を伺っています。そして、心ならずも罪を犯すこともあります。しかし、その時こそが悔い改めの絶好機です。
 イエスさまは私たちの罪を負うために十字架にかかられました。そのイエスさまに心から罪を告白するなら、イエスさまはその罪を神に執り成してくださいます。

◆ 天を目指して、神の子として歩もう 
地上における私たちの生活は罪の中にあります。しかし、神はそのような罪の世界の真っ只中にイエスさまを遣わされました。このイエスさまを固く信じて生きる時、私たちの生は清められ、愛で満たされます。それは天にある平安の先取りといえます。イエスさまにあって愛を取り戻し、神の子としての歩みを全うしましょう。