「キリストの死の意味」

2012年311() 「キリストの死の意味」         ( 面)

聖書 ヨシュア記 24:714~24 ガラテヤ 2:15~21

讃美歌  532(やすかれ、わがこころよ)、447(神はみこころは)、300(十字架のもとに)

◆  キリストの死の意味(受難の予告)

人が死ぬ前に残す言葉には、その人が生きた人生を総括し、かつ地上に残していく者への大切なメッセージがあります。イエスさまも受難の予告として、弟子たちに御自身が“わたしは命のパンである”と証ししておられます。イエスさまの死は命を宿しています。イエスさまの死に与ることは、永遠の命を得ることなのです。

 

◆  ヨシュアの告別の辞-「自分の仕える神を選べ」(契約の確認)

偉大なイスラエルの指導者モーセの後継者となったヨシュアは、約束の地カナンの地に入り、部族ごとに割当て地を定め、最期の時を迎えようとしています。

ヨシュアはイスラエルの民と、モーセと交わした契約(シナイ契約)をもう一度確認し直します。つまり、契約の更新です。(シケム契約) それは、ヨシュアが死んだ後、イスラエル共同体はどの神を選んで生きるのか、ということです。イスラエルをエジプトの地から導き出した唯一なる神に従うのか、それともカナンの地に入った今、この地の神々(偶像)に仕えて生きるのか、という二者択一の迫りです。

ヨシュアは「・・今、あなたたちが住んでいる土地の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主につかえる。」

<ヨシュア24:15>と語ります。当然、イスラエルの民は「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」と意気込んで応答します。<同:18>

しかし、人間の決意のいかに脆いものか。ヨシュアが死んだ後、主を知らず、主の御業を知らない世代が興ると、彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々に従い、これにひれ伏しました。<士師記2:12>

 

◆  イエスの教えの核心-「わたしの肉を食べ、血を飲め」(躓きとなる言葉)

聖書における信仰は、人を強制するものではありません。結果がどうあれ、受け取る人間の主体性を重んじます。そこには自由な信仰の選びがあります。しかし、選びには自己責任が伴います。自覚的信仰には永続性と喜びがありますが、神との契約を忘れ偶像に仕えることを選んだ者には、遅かれ早かれ滅びが臨みます。

この信仰の自由な選択は、キリスト教においても同様です。イエスさまが世に遣わされたのは、神の国と悔い改めについての宣教と、それに伴うしるしの業を行うこと(癒し等の奇跡)でした。そしてイエスさまは、“あなたはわたしに従うか”と問います。それは信仰の決断への促しであって、強要するものではありません。

しかし、イエスさまの教えの核心には、十字架による救い(贖い)という常識的には信じ難い壁があります。「わたしが命のパンである。」<ヨハネ6:35>と言われたイエスさまは、御自身よる救いについて語ります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(イエスの十字架を信じる者)は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」<同:56>  イエスさまに従って来た多くの者たちがこの言葉に躓き、去って行きました。残った12人の中の一人も裏切る者です。

◆  福音と律法-① 律法では救われない(パウロ、ペトロの態度を非難)

さて、今日のガラテヤ書箇所では、アンテオキヤの教会での分裂の危機的状況を踏まえて、パウロにとっての福音(キリストによる救い)の本質が語られています。

エルサレムのユダヤ人キリスト者は迫害を逃れ、アンテオキヤに教会を立てました。この地に福音の種が実り、多くの異邦人キリスト者が生まれました。そこに教会の権威者であるペトロがエルサレム教会からやって来ました。彼は、最初は異邦人とも分け隔てなく食事(儀式的食事=聖餐式)をしていたのですが、エルサレムから、ユダヤ人キリスト者(割礼を受けている者)が来ると、異邦人との食事を避けるようになりました。キリスト者の中での第一権威者であるペトロの取ったこの行動は、生まれて間もない教会にとって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者に分裂を引き起こしかねない、重大な問題を含んでいました。だからこそパウロは、公然とペトロに向かって態度の変節を厳しく追及したのです。「なぜ、割礼の者を恐れるのか」と。<ガラテヤ2:12>  福音に生きるべきはずの指導者への怒りです。

パウロ自身が、かつては頑なな律法主義者でした。しかし、律法では救われず、復活のイエスさまの霊(聖霊)に触れて、新しい命を得る経験をしていました。

◆  パウロの確信-②信仰による救い(わたしの内に生きているのはキリスト)

パウロの信仰の絶対的確信は、福音にあります。この福音は、律法による排他的一民族のみの救いを、全人類への福音(救い)へと解放します。また、福音にはアンテオキヤといった一都市にもたらされた信仰を、全世界に広げる力があります。

これを確信するパウロだからこそ、福音による救いを得ていながら状況によって律法規定を重んずる者と妥協するペトロに対して、毅然とした態度を取ったのです。

パウロにとっての福音の核心は、信仰による救い(信仰義認)にありました。それは、具体的にはイエスの十字架と復活を信じることによって与えられる救いです。

それはまた、神との関係を正すということでもあります。それでパウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」と告白しています。<ガラテヤ2:19>  それは、イエスさまの死の意味を明かすものです。つまり、イエスは律法の命じるところによって死にました。(「神を冒涜する者は、その罪を負う。彼は石で打ち殺される。」<レビ記24:15>)  しかし、神はその死よりの復活の命をイエスさまに与えられました。人はこのイエスさまの死と復活を意味する洗礼に与ることよって、新しい命を生きるという救いの恵みへと導かれます。

◆  神の恵みを無駄にしてはいけない(キリストの死に与る)

昨年の今日、3月11日(金) 東日本での大震災で実に多数の犠牲者が出ました。この災害を“神の迫りと受け止めよ”とある神学者は警告しています。キリスト者にとって死とは、キリストと共なる死から共なる生への復活、命の創造者なる神の恵みを生きることです。受難節のこの時、厳粛な思いで十字架を心に迎えましょう。