◆ 栄える者と衰える者(信仰の道)
一時、勝ち組(成功組)と負け組(失格組)という言葉が流行りました。それは、この世的判断によるものです。勝ち組には優越感が、負け組には悔しさが伴います。聖書はこれを、栄える者と衰える者といいます。その違いは、与えられた役割の中で、これを委ねられた者は栄え、それが終わると衰える者となるということです。
◆ イエスの洗礼-ヨハネの証し(「あの方は栄え、わたしは衰える」)
イエスさまは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そして、イエスさまもまた川向こうで洗礼を授けるようになります。そのため、ヨハネではなくイエスさまの方に行って洗礼を受ける人がふえてきました。それでヨハネの弟子は、あなたが証ししたあの人が川の向こうで洗礼を授けているとヨハネに報告します。
ヨハネの証しとは、わたしはメシア(救い主)ではなく、あの方(イエス)の前に遣わされた者であるということです。ヨハネは水で洗礼を授け、イエスさまは聖霊によって洗礼を授けます。その違いはヨハネの洗礼は罪の清めであり、イエスの洗礼には罪の赦しがあるということです。つまり、新たな命の再生をもたらします。
ヨハネはイエスさまの到来を結婚のたとえで語ります。ヨハネは花婿と花嫁の介添え人の立場にあります。花婿はイエスであり、花嫁は教会です。ヨハネの役割は
花婿が花嫁を迎えに来るのを見届けることです。ですから、花婿の到着で介添え人の役割も終わります。それゆえヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない。」と言って、イエスさまの到来を確認して喜び、謙虚に去って行きます。
神に忠実な者は、人の評価や自分の栄光に固執せず、与えられた役割に忠実です。
◆ ヨハネの自覚-ヨハネの喜び(「地に属する者、天に属する者」)
ヨハネは、人々に悔い改めを迫り神に立ち返ることを迫る役割を担った、偉大なそして最後の預言者でした。しかし、イエスさまは初めから神と共にある者、つまりすべてのものの上におられる天(神)に属する方であり、上から来られる方です。
イエスさまと神とは一体です。このイエスさまが語る、見たこと聞いたことのすべては神を証しするものでした。しかし、地に属する者はイエスさまの語ることを受け入れません。それは神を受け入れないことと同じです。一方、その証しを受け入れる者は、「独り子をお与えになるほどに、世を愛された」<ヨハネ3:16>という神の真実を認める者です。神は世を裁くためではなく、救うために御子イエスを世に遣わされました。わたしたちが問われるのは、御子への信仰の自覚の有無です。
ヨハネ福音書が語る重要なことは、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される」ということです。<3:34> 神は御子にすべてをゆだねられたゆえに、御子の語る言葉は聖霊に満ち、神の権威があります。この言葉には命に満ちています。
ヨハネがイエスさまの到来を喜んだのは、地に属する者である不完全な人間が、天に属する者であるイエスさまを通して、神の救いを見ることになるからです。
◆ 心にとどめる信仰-御子を認める(「イエスはメシア」)
わたしたちは教会において、イエスさまが神の子であり、メシア(救い主)であることを告げられています。この信仰を心にとどめることにおいて、わたしたちは教会にあって一つとなります。<Ⅰヨハネ2:24> この信仰にとどまることは大事
なことです。というのは、この世にあって(教会においてすら)、イエスと神の関係を疑う者がいるからです。彼らは、神の子であるイエスの受肉を認めていません。
イエスさまは、「わたしを見たものは、父を見たのだ」と言われ<ヨハネ14:9>、 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とも言って<同14:6>、ご自分と父なる神が一体であることを証しされました。 それゆえ、御子イエスを神の子メシアと認める者は父なる神を認めることであり、その信仰にとどまることで、父と子とわたしたち(教会)は一つとなる(一体化する)のです。
さて、この信仰をわたしたちの内にとどまらせるのが聖霊の働きです。聖霊はわたしたちにイエスさまの出来事(十字架と「復活)を想い起こさせます。わたしたちの信仰においては、それがすべてです。他に何も教えるものを必要とはしません。
御子を認めることはわたしたちの側の信仰ではなく、聖霊の導きによるものです。
◆ 再臨信仰-待つ者への祝福(「遅くなっても、待っておれ」) <ハバクク2:3>
さてヨハネが自らの幕引きを喜んだのは、キリストの到来に神の国の実現を信じたからでした。このイエスの到来には、二つの意味があります。一つは、イエスさまが人となって世に遣わされたということ(受肉)と、もう一つはイエスさまの再臨(終末)の到来です。つまり、到来には神の国の始まりと完成の意味があります。
今日、合わせて読んだ旧約のハバクク書は、この神の国の完成の時である終末を預言しています。「幻(神の救い)を書き記せ。・・定められた時(終末)・・は人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」<ハバクク書2:2,3> ここには、神の国(救い)の到来を信じて待つ者への祝福が語られています。神の愛から離れる者、高慢な者の心は正しくあり得ず救いからそれて、神の裁きを招きます。衰える者の行く道です。しかし、神に従う人は信仰によって生きるのであって<同2:4>、 それは栄える者の生きる道です。
イエスさまへの信仰を貫き通し、イエスさまの再臨(終末)を目の前に見据えて生きる者には、世の、あるいは自分の現在のいかなる状況をも超える平安があります。栄える者とは、イエスさまを喜びをもって迎え入れ、その内にとどまる者です。
◆ 栄える者となれ(日々、新たにされて)
人は生まれた瞬間から、肉体的には衰えに向かっています。しかし、「外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされて」いく<Ⅱコリント4:16> という信仰の道を聖書は教えています。わたしたちの平安は、内なる人が栄えるところにあります。それは見えないもの(聖霊)によって与えられる恵み・祝福です。