「救いは近づいている」 イザヤ 2:1~5、 ローマ 13:8~14 (2012.12.2)

◆ 救いは近づいている-主の来臨の希望
「信仰とは、望んでいることを確信し、見えない事実を確認することです。」<ヘブライ11:1> とあります。 キリスト者にとっての信仰は、主の再臨という希望を事実として確信するところにあります。その確信がブレない信仰の原動力となります。

◆ 終末の受け止め方-希望か恐怖か(永遠の命か滅びか)
今の日本は真に便利な世の中です。情報は一瞬にして伝わり、コンビニは24時間営業しており、世界中の名産物を居ながらにして調達できます。(もっとも、そういった便利さから遠ざけられている人たちがいるのも事実ですが)そして、聖書はそういった人間の営みのすべてが無に帰する終末の時が来ることを告げています。
この終末は富む者にも貧しい者にも、権力ある者にも無力な者にも、信仰のある人にもない人にも、どんな人にも公平に訪れます。この世の終りの時をどのように迎えるか、その受け止め方はその人次第です。しかし、その時が来るのは確実です。
この終末の時が突然やって来ることを、ノアの洪水物語”は人間に警告しています。<創世記6章~10章> この物語の中で、神は終末(洪水)の警告を、ノアを通して多くの人に伝えています。しかしこれを信じたのはノアとその家族だけでした。他の人は全く無視して自分たちの日常生活を続けていたのです。これが、わたしたちの現実の姿です。終末を正しく受け止めるには信仰が必要です。終末を主の再臨の時と信じる者には希望があり、滅亡の時と考える者には恐怖が先立ちます。

◆ 終末の接近-その時を知るのは神のみ(目を覚ましていよ)
その終末(主の再臨)がいつ来るかということについて、イエスさまは“それは神の領域であって自分も知らない”と言われます。<マタイ24:26> そして、終末の時には、“二人の男が畑にいれば、一人は連れ去られ一、人は残る。臼をひく二人の女のうち一人は連れ去られ、一人は残る”とその時の厳しい状況を語ります。
 だれが助かるのかはその時にならないと分かりません。だからこそ、その時に備えて「目をさましていなさい。」<同:42> とイエスさまは弟子たちに警告されます。
 しかし、いつ来るか分からない終末に対し、わたしたちは具体的にどのような備えをすればよいのでしょうか。聖書はその備えについて、生活必需品を蓄えておくことを勧めているのではないでしょう。確実なことは、いつか分からないが終末は必ず来る、そしてその日は近づいているということです。初代教会においては、それは本当に近い将来のこととして、切実な信仰の拠り所となっていました。しかし、終末の兆候はどの時代にもありましたが、現実には今に至るまで来ていません。
 この終末の遅延で、信仰に挫折感をもつ人も出て来ました。そこで、終末への備えの時についての信仰の持ち方に、より深い理解が必要となりました。大事なことは、終末に対する時間的認識ではなく、これをどのように迎えるかということです。

◆ 終末への備え-愛の実践(キリストを身にまとう)
ルターという神学者は終末への備えについて、“もし明日、終末が来るとしても、わたしは今日、リンゴ(ジャガイモ?)を植える”と言っています。要するに、普段と変わらない生活を続けるということです。そういう意味で、キリスト者の備えも普段通りであることが求められます。そのことについて、パウロは愛の実践ということを語ります。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがああってはなりません。」<ローマ13:8> この愛の実践こそが、終末に対する備えです。
では、わたしたちの日常生活でそういう備えが出来ているでしょうか。パウロは対人関係における愛について、十戒の後半部分(6~10)を取り上げます。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」<同:9> これらの戒めはすべて隣人愛の欠如から出て来る罪です。その罪は神に対する戒めに背くことから来ます。(十戒1~5)
聖書の語る愛とは、神の愛を前提とした“隣人愛”です。普段の生活の中で、この愛が身についていることが、終末への揺るぎない備えとなります。その愛は、日頃からイエスさまと共なる生活を実践することによってのみ、身につくものです。

◆ 真の希望-主の来臨(栄光に輝く王が来られる)
 キリストは十字架の死よりの復活において、闇(罪)を既に退けられ、真の勝利者となっておられます。そのキリストの愛の力を身にまとうことによって、わたしたちは隣人愛に生きる者と変えられます。その時生きているのは、もはや闇にある自分(「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」<ローマ13:13>)ではなく、光であるキリストだからです。キリストを着ることが、終末への真の備えとなります。
キリスト者にとっての終末とは、そのキリストが”栄光に輝く王”として再び来られる時のことです。<詩24:7~10> 救いの第一ラウンドはキリストの復活において既に終わりました。既に救いは近づいているのです。その救いの完成の時が終末です。その時、主がもたらすのは”平和”です。人々はその時「槍を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌」とします。<イザヤ2:4> 人々の間に争いは終結し、もう戦う必要がなく、戦いの道具は平和を象徴する農具に造り変えられます。
 これが聖書の告げる終末における希望です。しかし、この希望の時が満ちる前に、暗闇が全地を覆い尽くすとも聖書は語ります。この闇を照らすのが愛です。
 イエスさまは、まさに冷え切ったこの世に神によって遣わされ、十字架の死によって、闇に打ち勝たれました。救いは近づいています。主の来臨に備えましょう。

◆ キリストにある希望に生きよう       
希望が持てない人生は、空しいものです。逆に望みが多すぎると焦点の合わない人生になってしまいます。どちらにしても自分が中心の人生であることに変わりはありません。では本当に希望のある人生はどこにあるのでしょうか。それは、キリストに希望を置くことです。それが、すべての人に与えられている神の恵みです。