「主の家族」 イザヤ 49:14-21  使徒言行録 4:32-37 (2013.6.23) 

◆ 主の家族-主にある共同体
一昔前までは、日本においては大家族が一般的でした。そして、家族は家長を中心とした集団を形成してきました。教会その大家族の伝統を受け継いでいます。規模は違っても、すべての教会はキリストを中心に“主の家族”を形成しています。主の家族における絆は信仰にあります。それが血縁による世の家族との違いです。

◆ 大家族-旧約における祝福(共同体のルーツ)
 教会は信仰共同体と呼ばれます。この共同体のルーツ(根元)は、主なる神を中心として形成されたイスラエルの民族共同体にあります。この共同体の基本単位は、大家族制にあります。詩編133編は、この共同体の中で生きる喜びを歌っています。
 「見よ、兄弟が座っている。なんという恵み、なんという喜び」 シオン(エルサレム)はイスラエルを象徴する町です。このシオンに同胞が共に平和に住んでいるということはなんと幸いなことでしょうか。それは主の祝福がシオンに注がれているからです。共同体を神の前に執り成すのは祭司の務めですが、大祭司の任職にあたっては、神の祝福のしるしである油が頭に注がれます。イスラエル十二部族を現す宝石をあしらった祭司服の上に、その油は滴り落ちます。それは、露の恵みが砂漠を潤すように、共同体全体が神によって祝福されることを意味するものです。
 「シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を。」<133:3> ここに、神によるシオンの回復の約束がなされます。これは、シオンはかつて敵によって滅ぼされたことがあったことを意味しています。背信のイスラエルはバビロン捕囚という裁きの中で共同体崩壊を経験しますが、神はそのイスラエルの回復を宣言します。

◆ 共同体の回復-使徒の権威(聖霊の注ぎを受けた指導者たち)      
イザヤはその回復の喜びを、帰還した人々の「場所が狭すぎる」という嬉しい悲鳴で預言しています。<49:20> 共同体の回復は、神の憐れみによります。神はご自分の民を裁きつつも、「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける」と片時も忘れることがないのです。<同:16> 大家族の復興こそ民の喜びです。
 しかし、このイザヤの預言が成就するのは、この預言から何百年も後のことです。というのは、結局イスラエルの民は、「わたしは生きている」<同:18>という生ける神に立ち帰らなかったからです。逆に、民は神への反逆を改めなかったゆえに、国の独立を失ってしまいました。これがイスラエルの歴史が証明するところです。
 そのように、イスラエルは私たちに人間の罪の深さを教えています。どれほど厳しい裁きを受けても、また赦しを受けても、それだけで人間は神に立ち帰ることをしないのです。神を中心としない共同体は滅びる、それが聖書の教えるところです。それゆえ、神は御子イエスを中心に置いた共同体を新たに世に造り出されました。回復された共同体、それが教会です。かつて油注がれた祭司が共同体を神に執り成したように、今や、その働きは聖霊の注ぎを受けた使徒の権威に委ねられています。

◆ 主の家族-旧約預言の成就(共同体の復活)
では、その使徒の権威とはどういうものでしょうか。それは“奇跡を行う力”であり<使徒2:43>、また“主イエスの復活を証し”する力です。<同4:33> しかし、 いずれにしても「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」<同3:6>とペトロが言ったように、使徒が用いるあらゆる権威は主イエスに由来するものです。
イエスさまから油(聖霊)を注がれたこの使徒たちの権威のもとに、新たな信仰共同体がユダヤ社会の中に生み出されました。この共同体の大きな特徴は原始共同体といわれる、財産の共有性です。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」<同4:34> のは、土地や家を持っている者は、それらを売ってその代金を共同体のために差し出したからです。原始教会は、信仰においてイエス・キリストを土台とし、生活のおいては執着心を捨てた互助精神に基づいて、一つとなる理想的な共同体を形成していたのです。それは、旧約聖書で約束されていたことの成就でした。
 そのように生まれたばかりの教会は、使徒の権威によって統括され、貧しい者も富める者も主にある一致を通して“主の家族”としての喜びに満たされていました。
 
◆ 共同体の一致-世の奇跡(キリストにある絆)   
ユダヤ教もキリスト教も、信仰の根幹に唯一なる神を置いていることでは一致しています。しかし、イエス・キリストをイスラエルの内に待望されていた救い主(メシア)として認めるかどうかで、この二つの教えの連続性は途絶えます。キリスト教は、ユダヤ教を超えて新しい絆で結ばれました。その絆こそがキリストです。
 新しい共同体は、日々「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」と聖書は伝えています。<使徒2:42> これら一つ一つの事柄はすべて、キリストの名においてなされていました。大事なことは、キリストにあって「信じた人々の群れは心も思いも一つ」であったということです。<同4:32>
 わたしたちはこの信仰共同体の中に、神が世に成された大きな奇跡を見ます。ものの見方や考え方、行動の仕方等において、自己主張に固執するわたしたちが唯一つ一致できる道を神は教会を通して開かれました。教会にあっては、主張や職業、性や年齢、貧富や身分の違い等、あらゆる相違は、キリストにあって対立ではなく、共同体を豊かにし、また強める力に変えられます。逆にいえば、キリスト抜きの(聖霊不在の)教会はいつでも、人間中心的な集まりに堕落する可能性があります。
 
◆ キリストにある絆を教会に求めよう    
私たちは、教会に何を求めているでしょうか。個人的には様々な願いがあるでしょう。病気の癒し、経済の安定、人間関係における平安・・等。しかし、「まず、神の国と義を求めよ」とあるように、共に礼拝を守り、共に神さまからの祝福に与ることにおいて、すべての願いは満たされるのです。共なる神こそが教会の絆です。