「見えないものを望む」 ハバクク 3:17-19 ローマ 8:18-25 (2013.8.18)

◆ 見えないものを望む-忍耐
 先日、病院に時間指定で行ったところ一時間半待たされ、ついに堪忍袋の緒が切れ、受け付けに「診察はいいから薬だけ出してくれ」と言ったところ、事は解決。言わなければ更に待たされていたかも。わたしの忍耐は一時間半が限界でした。ちなみに今日の説教題は「見えないものを望む」、副題は(忍耐)となっています。

◆ 望み-忍耐して待ち望む
 今日のメッセージの結論を先に言うと、「わたしたちは、目に見えないものを望んでいる(救い)なら、忍耐して待ち望む」ということになります。<ローマ8:25>
 望むというのは、将来において願っていることが実現することに希望を持つということです。そしてここでの望みは、目に見えない(全くこの先どうなるか分からない)希望のことです。見えるものに対する希望は希望ではない、と聖書は語ります。<同:24> 先の結果が分かっているなら、何も望む必要がないからです。
 しかし、目に見えないものを望む、望み続けるには忍耐が要ります。先の見えないことに対してはあきらめが先立つからです。それゆえ、この見えない望みに対しては、事が成るまで忍耐を持って、“待つ”ということが求められるのです。
 忍耐と待望という点で、アブラハムが子を得たのは神の約束から1年後の100歳になってからでした。バビロンに連れていかれたエルサレムの民に帰還が許されたのは捕囚から70年後です。救い主メシア(キリスト)の誕生は、イザヤの預言から約600年経っています。詩編90編に「千年といえども御目には・・夜の一時にすぎません。」<90:4>とあるように、人間の計る時と神の時は、次元が違います。

◆ 救い-神の栄光に与る
アウシュビッツで生き延びた人と、自暴自棄になって死んでいったユダヤ人のことを、自らのアウシュビッツ体験を通して書き記した人がいます。いつ終わるとも知れない戦争の中で、長引けば遅かれ早かれガスで殺される運命にある囚われのユダヤ人、その中で生きる望みを失った人々は早く楽になりたいと死を選び取りました。しかし、神の存在を信じた者はあの過酷な状況の中で生きながらえたのです。まさに奇跡としか言いようがありません。その人たちは、自分の命を目に見えない神に委ねました。それが信仰です。忍耐をもって、神の存在そのものを信じました。
 そういう忍耐とは、死をも受け入れる用意のある忍耐ということが出来るのではないでしょうか。それは、生を諦めたのではなく神の御心としてすべてを受け入れるところから来る忍耐です。自分に望みをかけるのではなく、神にすべてを委ねるという意味での忍耐です。ですから、こういう忍耐には時間的希望を超越し、神が共におられるという確信があります。だからこそ状況がどうあれ、命にこだわることなく、生でも死でもどちらであっても希望を持ち続けることが可能となるのです。
 ここに、救いを得る者、つまり神の栄光に与る者に与えられる祝福があります。

◆ 呻き-産みの苦しみ
 パウロはフィリピ書の中で、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、・・だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」と語っています。<1:21-24> これは、自分の命をキリストにある永遠の命の中に託す(死)か、この世にあってキリストの救いを宣べ伝える(生)かの選択です。
 パウロにとって、死も生もキリストにあってはどちらにも大きな意味があります。自分の命を喜びで満たすのも良し、他者の命を喜びへと導くのも良し、すべては、神の御心次第というところでしょう。パウロは生死の問題から自由にされています。
 それは、キリストの復活を信じる者に与えられている者の特権と言えるでしょう。
この世の被造物(存在するすべてのもの)は、神の調和ある世界を“うめき”をもって待ち望んでいる、とパウロは言います。それは、神の祝福をもって創られた天地万物<創世記1:1-2:1>が、今、不調和と悪に満ち、滅びに向かっているからです。それゆえ、すべてのものがもう一度、神の栄光に与る時を待ち望んでいます。
<ローマ8:21,22> それは神の再創造を願う、言葉にならない“うめき”です。
  
◆ 希望-確信をもった忍耐
これは、自然界のみならず人間の切なる望みでもあります。神は罪の世に御子キリストを遣わされました。このキリストによる救いを受け入れた者は、霊的命に与りましたが、この救いはまだ完成したわけではありません。(当時、熱狂的グループの中には、霊の賜物に与ったことで救いは完成したと高ぶる者たちがいました。)
 本当の救いの完成の時は、将来(終末)における復活のキリストの再臨の時です。それがいつのことか、わたしたちには分かりません。ただ分かっていることは、“その時”が来るのは確実である、ということです。キリスト者は、その時が来るのを忍耐をもって、希望の内に待ち望んでいます。その忍耐には確信があります。 
 希望とはあるかないかのかすかな、稀なる望みのことです。しかし、どんなに小さな望みでも“希望”として与えられた望みは、神の時が来れば必ず成る、それも人の思いを遥かに超えて成就する、というのが神にある希望です。そのことを、“からし種のたとえ”は教えています。1ミリにも満たない小さなからし種は成長すると、鳥が来て巣をつくるほどに大きく成長します。<マタイ13:32> 神を信頼するなら、先の見えないような希望であっても、その将来は神の御手にあります。
 
◆ 希望をもって忍耐しよう   
わたしたちの教会は現在、目に見えるところでは人数が減っています。そして、わたしたちは今、見えないものを望んでいます。つまり、30人礼拝です。この願いがいつ満たされるかは分かりませんが、しかし、確信と希望をもって待ち望んでいます。そのためには忍耐が必要です。希望をもって、祈り続けていきましょう。