平和聖日 「悔い改めと信仰」 エレミヤ 20:7-13 使徒言行録 2017-35 (2013.8.4)

◆ 悔い改めと信仰-苦難の共同体
 先日韓国で行われた日本と韓国のサッカーの試合で、韓国語で“歴史を忘れた民族に未来はない”との横断幕が韓国サポータ-の中で掲げられ、問題となりました。それに対し、読売新聞はコラムで「秩序と常識を忘れた・・」と反論しています。
人間の応酬にはきりがありません。悔い改めと信仰のみが真の平和を取り戻します。

◆ パウロの遺言説教-エフェソの教会の長老たちへ
 パウロは、第三回伝道旅行を終えて、帰路、船でエルサレムへ向かいます。パウロは立ち寄ったミレトスの港町に、エフェソの教会の長老たちを呼び寄せました。そこで長老たちに語ったのが、いわゆる遺言説教といわれるお別れのメッセージです。パウロには、二度と彼らに会うことはないという悲壮な覚悟がありました。
 パウロはエフェソの町で三年の間、迫害に耐えて腰を据えて教え、伝道してきました。<使徒20:31> その思いが、パウロと長老たち双方の胸に溢れて来ます。
 パウロは、主に仕え、彼らを教えるにあたって“涙をもって”と二度繰り返しています。<同:19,31> それほどエフェソでの伝道は苦難を伴うものであったのです。そういう中で、パウロが証ししてきたことは、「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰」です。<同:21> この証しは、エフェソに住むユダヤ人にもギリシャ人にも、場所を問わず、いつでもどこでも誰にでも分け隔てなくなされました。
 この“悔い改めと信仰”こそ、キリストの教会がその共同体性を維持していく上で、欠かせない要素です。教会は神に立ち帰る悔い改めと主イエスを救い主と仰ぐ信仰をもって始めて、その群れは争いを乗り越え、平和による一致を保ちます。

◆ 聖霊が告げること-投獄と迫害
このお別れのメッセージの中で、パウロは霊”に促されてエルサレムに帰ることを長老たちに語ります。さらに聖霊が確かなこととしてパウロに告げていることは、そのエルサレムにおいては投獄と苦難が待ち受けているということです。実際、パウロはエルサレム滞在中、神殿でユダヤ人に疑いをかけられ捕らえられ、船でローマへと護送されることになります。その後、パウロはローマで殉教したようです。
 しかし、パウロにとって最も大切なことは、自分に決められた道を走り通すことでした。それは、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすこと」です。<使徒20:24> たとえそのために、命を失うことになっても構わない、とパウロは自分の信仰における覚悟を長老たちに語りました。
 パウロは生粋のユダヤ人として、その経歴(出生・民族的誇り、宗教的エリート等)からいって多くの賜物を授かっています。しかし、その賜物はキリストの福音伝道においては全く無用のものとなりました。<フィリピ3:5~8> 「キリストを知ることのあまりのすばらしさ」ゆえに、パウロは自分の置かれた場所がたとえ牢の中であったとしても、その場を伝道の場として喜びをもって受け入れています。

◆ 神と恵みの言葉-教会をゆだねる
 パウロにとって最も大切なことは、キリストの血によって立てられた教会を育て、その教会を乱そうとする者から守ることです。パウロがミルトスから約50キロも離れたエフェソの長老たちをわざわざ呼び寄せたのはそのためでした。パウロは自分が去った後(もう2度と会うことはない)のエフェソの教会を、長老たちに委ねます。そのために、パウロは最後にもう一度、彼らに自分たち自身の信仰と群れ全体に気を配るよう、注意を促すのです。ここにパウロの大きな配慮の表れを見ます。
教会は神とその言葉(十字架)に聞き従って歩むことで、教会としての命を保ちます。しかし、十字架を離れる時、教会は苦難にさらされることになります。
 いつの世にも、教会に入り込んで中を荒らそうとする敵(狼-悪霊)は存在します。それは外側だけではなく、内側からも現れます。異なった教えを説く者が教会員の中から現れ、信徒を惑わすのです。それに対して、パウロは「目を覚ましていなさい。」と警告します。<同:31> 教会を荒らそうとする者に対して、パウロは「神とその恵みの言葉」を長老たちにゆだねます。神の御言葉こそが、長老たちの信仰を造り上げ、信徒となった者たちと共に恵みを受け継がせるものとなるからです。
  
◆ 平和の基-悔い改めと信仰
 神の言葉についてヘブライ書は、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と記します。<4:12> この生ける神の言葉が、正しいバロメーターとして信仰共同体(教会)を“悔い改めと信仰”に導きます。
 エレミヤは預言者として神からの召命を受け人々に御言葉を語りましたが、人々は彼をあざ笑いました。御言葉ゆえに彼は人から恥とそしりを受けます。打ちひしがれたエレミヤは、一時、神の言葉を自ら封印しました。しかし、御言葉は彼の内にあって燃え上がり、黙っていることに彼は疲れ果てました。 「わたしの負けです。」とエレミヤは神に降伏せざるを得ませんでした。<エレミヤ20:9> 人々がいかに彼の言葉を無視しようと、神の言葉は生きています。生きた言葉は、御言葉を聞き入れようとしない人を断罪します。それゆえ、エレミヤは民が神に対して悔い改め、信仰を取り戻し平和を取り戻すよう、必死になって民の悪を神に執り成しました。
 パウロの働きはエレミヤの活動を思い起こさせます。十字架の言葉を受容するには悔い改めと信仰(新しい布切れ、新しい皮袋)が必要です。<マタイ10:16,17>
 
◆ 教会に求められること   
今日の礼拝は、キリスト教暦では“平和聖日”です。教会も日本の犯したかつての戦争の過ちを、神の前に真剣に悔い改めることを求められています。多くの日本の教会が “時代の流れ”に流されたのは事実だからです。教会の任務はどんな苦難の中にあっても、「神への悔い改めと主イエスに対する信仰」に立ち帰ることです。