「収穫の主」 ヨナ 3:1-5 使徒言行録 9:26-31 (2013.7.28)

◆ 収穫の主-宣教への派遣
先日の参議院選挙では、三人の立候補者から比例代表では○○と名をお書き下さい、という案内はがきが届きました。インターネットで各政党のコメントも発信しています。また、いきなり、「ハレルヤー」(録音)という電話もありました。情報手段は様々ですが、受取人がその気になって行動して始めて、伝達効果ありです。

◆ イエスの宣教-イエスの派遣
神が主イエスを世に遣わされたのは、主の伝道において人々が悔い改め、福音を信じるようになるためです。主の到来は、時が満ち、神の国がすでに来たことのしるしでした。<マルコ1:15> イエスにおいて神の“憐れみ”が実現しています。
 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とマタイはイエスさまの伝道の働きの様子を伝えています。<マタイ9:35> また「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。<同:36> 飼い主のいない羊は飢えと渇きに苦しみ、外敵に怯えます。憐れみとは、神を見失い生きる目的を見出せないでさ迷っている人間に対する、イエスさまの心からの痛みです。
だからこそ、イエスさまはさ迷う人間に対して、ご自分が飼い主(救い主)であることを、伝道、つまり神の言葉を語り癒しの業を行うことでお示しになりました。
 しかし、イエスさま一人の伝道には、場所的にも時間的にも限りがあります。世には救いを求めている人が無数にいるからです。そのために、イエスさまは弟子を作り、弟子たちを通してその伝道の業を継承させました。宣教のための派遣です。

◆ 宣教の委託-預言者・宣教者
さて、“世には救いを求めている人が無数にいる”ということは、それだけ神にとって収穫の対象となるべき人々(救われるべき人々)が無数にいるということです。その収穫(救い)のためには働き人が必要です。しかし、「収穫は多いが、働き手が少ない」のが現実です。<同:37> 収穫は多くてもそのために働くには多くの労力と忍耐、そして何よりも神への確かな信仰と愛が不可欠です。それゆえ、神は収穫のために働く者を選び分かち、訓練します。それが預言者であり、宣教者です。
旧約聖書を見ると、いろんな預言者が出て来ます。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、ヨエル、アモス、ヨナ・・・。(モーセ、エリヤ、エリシャ等も含め)
旧約の終わり、新約の初めには最後の預言者洗礼者ヨハネが登場します。彼らの多くは、人々に伝えるべき神の言葉を委ねられたがゆえに、迫害を受けました。それはまさに命懸けの働きです。多くの世の人々にとって、神の言葉は自分にとって聞きたくない、葬り去りたい戯言に過ぎないからです。そして、人は滅びていきます。
 しかし、神の憐れみは止まることなくついに神の御子キリストを世に遣わすことによって最高潮に達します。そのキリストは、弟子に自らの宣教を委託されました。

◆ 委ねられた者の自己義認-神の懲らしめ
しかし、選ばれた人物が最初から選びの主に忠実とは限りません。今日、聖書で取り上げた旧約のヨナ、新約のパウロ(サウロ)は、共に大変愛国心に富む人物でした。それは選びの主への忠実さよりも、自己義認に固執するということです。
 ヨナの場合、神からニネベの町への宣教を委ねられました。ニネベはイスラエルにとって憎き敵です。そんな町の人々の救いなど、ヨナには全く関心がありません。そこでヨナがとった行動は、ニネベの町とは全く正反対のタルシシュ行きの船に乗って神の前から逃亡することでした。しかし、神はすべてご存知です。船は嵐に巻き込まれ、ヨナは死ぬ寸前でした。しかし、大魚がヨナを飲み込み、彼は命を取りとめ、ニネベへと宣教に向かいます。神にとっては、すべての人が救いの対象です。
 一方、パウロは生粋のユダヤ教徒として、ユダヤ教の分派のように登場してきた新参のキリスト者を胡散くさい目で見、これをつぶすことに全精力を費やします。
しかし、復活のイエスはパウロの目から一時、光を奪いました。このイエスとの出会いの経験が、彼をキリスト者の迫害者から熱心なキリストの宣教者へと変えます。
 神は収穫の主として働き人を用いるとき、まずその人の自己義認を打ち砕きます。
 
◆ 収穫の主-まずは宣教から(種蒔き)
 収穫は種まきから始まります。種をまく者がいなければ収穫はないというのは当たり前のことですが、わたしたちはそのことを忘れ、収穫だけを望むところがあります。それは、教会が伝道をすることなく、教会の維持発展を願うようなものです。あるいは、教会から救いだけを求め、教会への奉仕には無関心であることです。
 教会における収穫の主は神であり、イエス・キリストです。わたしたちが主ではありません。その主が教会(わたしたち)に求めるのは、主のために働くことです。つまり、すべてのことにおいて、教会が神に栄光を帰す働きを成すとき、そこに自ずと神の祝福が現れます。教会は満たされ、そこに集う者には平安があります。
 パウロの宣教者としての働きは、その経緯から、最初キリスト者からは疑われました。また、かつてのユダヤ教徒からは裏切り者として命を狙われることになります。しかし、神の御手によりパウロを仲間に執り成す者が現れ(バルナバ)、その仲間たちの助けにより敵から逃れ、彼は教会の種まき人としての働きに生涯徹します。
 教会はそのような働き人を得て、「平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と聖書は記します。<使徒9:11>
 
◆ 神の派遣に応えよう    
一時、派遣の品格というドラマが流行りました。派遣される者には、派遣する者からの信頼があります。それが宣教ということであれば、それは神からの信頼の委託です。教会に連なる者はすべて、神によって選び分かたれた者であり、その者は神から世へと派遣される任務を負います。その任務には神の栄光が輝いています。