「キリストの使者の務め」 ホセア 6:1-6 Ⅱコリント 5:14-6:2 (2013.7.21)

◆ キリストの使者の務め-憐れみの福音
この頃、何かというと“逆切れ”から来る事件を耳にします。先日は宝塚市役所に火炎びんを投げ込んで庁舎に放火した男がいました。63歳(私と同年)ということで、若者よりも年配の方が“逆切れ”すると怖いようです。これは自己中心的逆恨みであって、神の憐れみである和解の恵みを知らない者が引き起こす悲劇です。

◆ 神が求めるもの-いけにえではなく愛
かつて、北イスラエル王国は繁栄していた時がありました。しかし、宗教的には
生ける真の神とバアル神(偶像)礼拝との混淆宗教に陥っていました。隣国との戦いで苦境に陥った北イスラエルは悔い改めます。「さぁ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」<ホセア6:1> しかし、これは本心からではなく、偽りの悔い改めでしかありません。
 彼らは神が望みを叶えてくださることを計算に入れた上で、「我々は主を知ろう」と言います。それは信仰告白ではなく、願いを満たす神を求めているのにすぎません。それで神は預言者(ホセア)を通して、神の言葉が偽る者たちを滅ぼすと宣言されました。神が喜ばれるのは愛であって、いけにえではありません。つまり、神が求めるのは形式的な祭儀的行為でなく、まず神の憐れみそのものを知ることです。
 この神の求める憐れみ(愛)を具現化されたのが、イエスさまです。イエスさまが選んだ十二人の弟子の中に、人から罪人と見なされ、忌み嫌われていた徴税人のマタイがいます。イエスさまはこのような罪人とも率先して交わりました。そこには、「わたしが来たのは罪人を招くためである」との愛があります。<マタイ9:13>

◆ パウロの使者としての自覚-神には常軌を逸し、人には正気
このように、イエスさまが実生活の中で神の憐れみを実践したのと同じように、パウロはキリストの使者としての自覚をもって、与えられた任務を果たしました。
 コリントの教会には、神の言葉を売り物にする偽教師がいたのです。それに対してパウロたちは神に対しては狂ったように熱心に仕え、信徒たちには正気になって
神の恵みを伝えました。彼らをそのような者へと駆り立てたのはキリストの愛です。
 キリストの愛それは、キリストはすべての人のために死んでくださったという事実です。つまり、キリストはすべての人の罪が赦されるために死なれました。その目的は、「生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活して下さった方のために生きる」ためです。<Ⅱコリント5:15>
パウロはキリストの愛に生きる者とは、「生きるとすれば主(キリスト)のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。生きるにしても、死ぬにしても、自分たちが主のものである」<ローマ14:8> という信仰に固く立つ者であると語ります。
 それは、人からみれば常軌を逸しているように見えるかもしれません。しかしキリストの愛を知るならば、人は自分というこだわりを喜んで捨て去られるでしょう。

◆ 神による和解の道-キリストの十字架と復活
そこに神と和解する者の恵みがあります。和解するとは、人と人、双方が対等の立場で受け入れ合うことをいいます。しかし、神と人が対等になるということはあり得ません。ですから、神と和解するとは、人が神の憐れみを心からへりくだって受け入れることです。神はご自分の憐れみを、キリストを通して世に現されました。
 この神による和解とは、神が罪のないキリストを私たち人間の罪を贖うために、罪ある者として裁かれたということです。それは、イザヤの預言にある通りです。「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」<イザヤ53:5>
 パウロはキリストの使者の務めとして、私たちに勧告しています。「神と和解させていただきなさい。」<Ⅱコリント5:20> では、神と和解することによって何が変わるのでしょうか。それは、キリストを通して神と和解した者は「新しく創造された者」となる、ということです。その者はもはや、古い自分に囚われることなく、聖霊に生かされる新しい命、復活のキリストに生きる者へと変えられるのです。
 
◆ キリストの使者の務め-憐れみの福音を伝える
 パウロは、神がキリストを通して自分たちに和解のために奉仕する任務を授けられた、とコリントの教会の信徒たちに語りました。<同5:18> パウロたちに託された和解の言葉とは、神の義、すなわちキリストによる救いの言葉である福音です。
 キリストを通して神の憐れみを世の人々に伝えることが、パウロのキリストの使者としての務めです。そのパウロが神の救いの協力者として勧告するのは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」ということです。<同6:1> 神は神の御心に適う時(恵みの時)に私たちの願いを聞き入れ、救いの日に私たちを助けてくださるからです。<イザヤ49:8> この旧約の言葉は、イエス・キリストにおいて成就しました。神はキリストの十字架を“救いの日・勝利の時”と定められました。このキリストを受け入れる、その時こそがわたしたちにとっての恵みの時、救いの日となります。わたしたちはまさにこの時、神との和解の恵みを経験します。
 人は和解の勧めを受け入れて始めて、キリストを通して神の救いに与ります。そして、その憐れみの福音に与った者は、それから後、神の憐れみに生き、愛を宣べ伝える働きを通して、“キリストの使者としての務め”を神から委ねられます。
 
◆ 神の和解を受け入れよう    
 私たちは、心から神の和解を受け入れているでしょうか。人と和解するにはまず神との和解が必要不可欠です。そうでなければ、人との和解は不可能だからです。神が伴ってくださってこそ、あらゆる和解の知恵や力が備わります。教会の礼拝においても、和解ある礼拝を神は喜ばれます。和解から新たな祝福が生まれます。