「信仰によって、山も動く」 ヨシュア記 6:1-10 ヘブライ 11:23-31 (2013.9.29)

◆ 信仰によって、山も動く-信仰による生活
わたしたちには、”自分の信仰は病を癒し、願い事を叶え、山を動かす力がある”という確信があるでしょうか。そう思っている人は、狂信的な信仰の持ち主以外、一人もいないでしょう。しかし、聖書は「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」と明確に語ります。<マタイ21:22> その根拠は何でしょうか?

◆ 信仰とは-神への確信と確認
 キリスト者(クリスチャン)にとって最も知りたいこと、また自分の身に付けたいこととは何でしょうか。それは信仰とは何かという、その一言に尽きるでしょう。
 聖書はその信仰について次のように宣べています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」<ヘブライ11:1> それは、将来において願っていること(祈り)が神の御心において必ず成るという揺るぎない神への信頼のことであり、まだ形をなしていない結果が神にあってすでに起こった出来事として受け入れていくことではないでしょうか。これは自分の都合の良いような結果のみを思い描く誤った確信、いわゆる妄想とは全くの別物です。信仰は“わたし”の確信・確認ではなく、あくまでも“神”を中心とした確信であり確認です。
 その神による救いの出来事を裏付けているのが、キリストの十字架です。パウロはその確信について、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語ります。<Ⅰコリント1:18>
 わたしたちの信仰が確かなものとされるのは、“十字架と復活”がすでにわたしたちの前に置かれているからです。わたしたちの信仰を支えるのは十字架です。

◆ キリストの贖い(新約)-神の忍耐(旧約)
信仰はわたしたちの内を平安で満たします。それは状況がどうあれ、神が共におられる(インマヌエル)という確信から来ます。それが“救い”ということです。
ここで大切なことは、自分中心にしか生きられない罪を抱えている人間がどうして、救いを得ることが出来るのかということです。この救いということについて、ローマ3章25節は、「人はただキリスト・イエスによる贖いを通して、神の恵みにより無償で義とされる(救われる)」といいます。この贖いとは、罪ある者が赦される(救われる)ために、身代わりとなって犠牲となられたキリストの業をいいます。
 このように新約時代においては、キリストの執り成しによる救いが明確に告げられています。では、キリストのまだ登場しない旧約時代の人たちはどのようにして救い・平安を得たのでしょうか。それは、神の直接的介入によって、です。では、その神への信仰とキリストへの信仰とはどこに違いがあるのでしょうか。
 同3:26に「神は忍耐してこられたが、今この時に義を示された」とあります。旧約時代、神は人が犯した罪を見逃して、つまり忍耐されましたが、いよいよその罪をキリストにおいて裁くことによって、人間に義(救い)をもたらされました。

◆ 手に入れなかった約束-メシア(救い主キリスト)
このように、旧約における神の忍耐がつたない人間の信仰を受け入れ、神の御業をもって信仰共同体に、また一個人の信仰者に大きな祝福をもたらしました。
 旧約のエリコ攻略物語は、神による奇跡の御業を物語ります。カナンの地に入ったイスラエルの民の前には難攻不落の古都市エリコが立ちはだかります。しかしヨシュアに導かれた民がこの町を七周りした後、鬨の声を上げると、エリコの町は崩れ落ちました。この戦いの主は神です。神は奇跡的業をもって人々を導かれます。
 ヘブライ書11章は、この神の力を信仰によって受け入れた人々の名を明記し、その信仰の証しの生涯を語り伝えています。<11:4-32> 「信仰によって、アベルは・・エノクは・・ノアは・・アブラハムは・・イサクは・・ヨセフは・・モーセは・・娼婦ラハブは・・以下ギデオン・バラク・サムソン・エフタ・ダビデ・サムエル・預言者たち・・。」 神は彼らの内に働き、彼らはその証しの生活を通して神の栄光を現しています。しかし、彼らはその信仰ゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れなかったと聖書は語ります。<同11:39> 彼らが信仰をもって確信し確認しつつ待ち望んだもの、それがメシア(救い主)なるキリストです。
  
◆ 神に不可能はない-信仰の奇跡
こう見てくると、旧約時代の信仰者たちに比べて、わたしたちはいかに恵まれているかがわかるでしょう。わたしたちには、わたしたちの努力によってではなく神の忍耐によって、救い主であるキリストがすでに与えられているのです。キリストによる救いの業である十字架を受け入れる信仰がわたしたちの生涯の祝福の基です。
 信仰はときに、エリコの町の自然崩壊のような奇跡をもたらします。しかし、それは人間の目から見た現象であって、全能の神にとっては必然的な事柄です。神に不可能はない、それが聖書がわたしたちに語りかけるメッセージです。それゆえ、神の御心として示されたことを信じて疑わずに願うならば、たとえ現実に不可能と思えることであっても、その願いは聞かれるのです。信仰が奇跡を生み出します。
 イエスさまは十字架につくために最後のエルサレム入城を果たしました。そして、神殿で宮清めをされ、御自身のもつ権威を言動で示されます。そしてこの権威は“山をも動かす”という信仰として、わたしたちも持つことが出来ると約束されました。<マタイ21:21> 人間の力ではなく信仰を通して神の力が働くとき、起こりえない奇跡が起きます。わたしたちの生涯が信仰に導かれること自体が奇跡です。

◆ 信仰をもって、共感する思いを分かち合おう 
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と聖書は勧めています。<ローマ12:15> しかし、これは自分へのこだわり(執着心)から解放されていなければ不可能に近い言葉です。わたしたちは常に自分が中心だからです。しかし、イエスさまへの信仰がこの呪われた状態を取り壊し、人への共感で満たして下さいます。