◆ 飲食は神の恵み-神の賜物
昔のフォークソングに“今日の仕事はつらかった、後は焼酎をあおるだけ。”(岡林信康-牧師の息子)という山谷ブルースがありました。悲しい日雇い労働者を歌ったものです。仕事につけた者は焼酎が飲める。しかし、仕事が終わればお払い箱の立ちんぼう。彼ら(人間)にとって、飲み食いは生きる上での最大の関心事です。
◆ 主の祈り-“この日の糧を与えたまえ”(肉的糧・霊的糧)
主の祈りの中に“わたしたちに今日も、この日のかて(糧)をお与え下さい。”と祈る一節があります。この糧には、食糧のように体を養う肉の糧と魂を養う霊の糧、
両方の意味があります。イエスさまが荒れ野で空腹を覚えた時、悪魔は石をパンに変えて空腹を満たすよう唆します。その時、イエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉で生きる」と言われました。<マタイ4:4> ここでは、人間
が生きていくには、肉的糧とそれ以上に霊的糧も必要であることが語られています。
いずれにしても、人間は今日を生きるために今日一日分の糧を必要としています。その糧は、当然あるもの、あって当たり前のものではなく、神に祈り求めるものであることを、主の祈りは教えています。飲食は神から来る賜物(恵み)だからです。
この祈りは、人間に神への謙虚さを求めるものでもあります。それでパウロは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じています。<Ⅱテサロニケ3:10> ここでのパウロの戒めは、誤った終末理解(どうせ終末が来るんだから好きなことをして過ごそうという態度)から来る怠惰な生活を戒める言葉です。 “たとえ明日終末が来ようとも、わたしは今日りんごの木を植える”これが、キリスト者の姿です。
◆ 荒れ野でのさすらい-神の賜物(マナ)
キリスト者に求められるのは、終末にいたるまで神(キリスト)に忠実に従い続けることです。それは、神によって備えられた道を、それずに歩み続けることです。
かつて、エジプトから導き出された神の民、イスラエルは目的地(カナン)を目指して歩み始めた途端、躓きました。荒れ野における苦難に耐える訓練が出来ていなかったからです。民は早々に、エジプトに帰ろう、と弱音を吐き、連れ出した神やリーダーであるモーセを呪います。「(エジプトで)我々は、肉のたくさんはいった鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」<出16:3> 躓きの原因は糧です。
しかし、この糧(飲食)の欠乏は、神御自身の憐れみによって解消されました。神はカナンに到着する迄の40年間、荒れ野をさすらう民をマナ<同:15>という不思議な食べ物で養われたのです。(「彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々にもはやマナはなくなった。」<ヨシュア5:12>)
困難に出会うと神の恵みをすぐに忘れてしまったイスラエルの民は、まさにわたしたちの姿です。そして神は、背く民を励まし肉の糧をもって目的地まで導かれたように、弱いわたしたちの信仰の旅路を霊の糧をもって今も強めていて下さいます。
◆ イエスのたとえ-労働における神の憐れみ(同一賃金)
神の憐れみは、具体的にイスラエルの民を肉の糧(天からのマナ)で養い、わたしたちを霊の糧(キリストの霊)で養うことに現れています。この神の憐れみをイエスさまは“ぶどう園の労働者”のたとえで語られます。<マタイ20:1-15>
ある人々が早朝からぶどうの収穫のために雇われ、日中の暑さの中も働き通し、ようやく日が暮れて一日の仕事が終わります。そして、その労働が報いである賃金受け取りの時が来ます。一方で、もう仕事の終わる時刻になってようやく雇われた人もいます。そして、この人たちから賃金が支払われます。一デナリオン、一日の日当分です。少しの時間でも一日分、これを見て早朝から働いた者たちは期待します。自分たちの賃金はどれくらいになるのだろうか。しかし、やはり一デナリオンでした。このたとえは人間的な価値観で捉えると、実に不公平であり得ない話です。
長時間働いた者には当然、不満が残ります。しかし、主人は言います。“わたしは不当なことはしていない。” 朝から働いた者にはその日の糧は約束されています。しかし、夕刻まで雇われなかった者にはその日の糧はないのです。神の憐れみとは、人間の受け取る報酬の多少ではなく、神が人を用いられるところにあります。
◆ パウロの伝道方針-自給自足(地に足のついた信仰)
そいういう意味でパウロは自分の働き(伝道)について、人の世話にはならなかったという自負心があります。パウロは、天幕造りという手に職をもっていました。
ここにはイエラエルの伝統的な考え方があります。労働ということについてギリシャ人は、労働は奴隷がすることであると考えていました。ギリシャ人の自由はこの奴隷の労働の上に成り立っています。しかし、離散を繰り返すユダヤ人は手に職をもつことが生きる知恵であり手段でした。それで、ユダヤ人は小さな頃からパウロのように、何らかの生活の手段となるものを身につける訓練を受けていました。
そもそも聖書は、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し(労働)、守るようにされた。」<創2:15> とあるように、労働を聖なるものとして扱っています。この聖書的伝統がパウロを、自給自足を基本とする伝道者としたのでしょう。神の恵みに対する謙遜さは、労働を通して培われるものです。
しかし、テサロニケ教会のある者たちは自ら働こうとせず、怠惰な生活を送っていました。それは神に対する傲慢さを示すものです。「行いのともなわない信仰は死んだもの」<ヤコブ2:17>とあります。労働は、地に着いた信仰を養い育てます。
◆ 神の恵みに感謝しよう
今は働きたくても、希望する働き場がないのが現状です。まさに、夕暮れが迫る中、職を求めてさ迷うぶどう園の労働者のようです。この日の糧をお与えください、という祈りは、仕事が与えられることを祈る祈りとなります。だからこそわたしたちは、その日の糧を約束される憐れみの神に、まず感謝の祈りを献げましょう。