◆ 香りのよい供え物-新しい戒め
律法は本来、人間が神の祝福に与るために与えられたものです。それは、人間にとって喜びとなる賜物です。それゆえ、詩編119ではこの律法をいろいろと言い換えます。“掟・戒め・定めの道・主の道・命令・御言葉・仰せ・教え・” これら、旧約での救いに与る律法を、一言で言えば“愛”ということになるでしょう。
◆ 祝福のしるし-長寿
本日の礼拝は敬老祝福の意味合いをこめてのメッセージです。ただ、今回は“敬老”という名称がふさわしいかどうかが問題になり、“長寿”祝福ではという意見もありました。しかし、長寿では90歳というイメージもあり元の敬老に戻りました。
さて、創世記5章(アダムの系図)をみると、アダムの生涯は930年、その子セトは912年、その子エノシュは905年・・ノアは950年<同9:28>ととんでもない長寿です。アブラハムに至ってようやくその生涯は105歳、モーセは120歳<申命記34:7>と、その長寿の年数は現実味を帯びてきます。(金さん、銀さんのよう)
聖書は、長寿を神からの“祝福のしるし”としてみています。「白髪(長寿)は輝く冠」<箴言16:31>、「力は若者の栄光、白髪は老人の尊厳」<同20:29>、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。」<イザヤ46:4>、
「生涯、彼を満ちたらせ(長寿をもって) わたしの救いを見せよう。」<詩91:16>、
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。」<レビ19:32>
日本は世界有数の長寿国とはいえ、すべての人が長寿を喜ぶ時代ではなくなっています。それゆえ、魂の平安を伴う長寿は神から与えられる祝福・恵みなのです。
◆ 香りのよい供え物-万民の祝福
この祝福は誰にでも、というわけではありません。長寿の祝福は信仰をもって年を重ねた者に与えられます。聖書における祝福というのは元来、イスラエルの民(神の民)全体に与えられた恵みでした。それは、十戒を通して民に与えらたものです。この戒めに聞き従うことで、信仰共同体は神の祝福に与ると約束されていました。
この十戒は前半(1~4戒)では神と人との関係について、後半(6~10戒)では人と人との関係について、前半と後半をつなぐ5戒(汝の父母を敬え)で成り立っています。ある時、金持ちの青年がイエスさまに「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。イエスさまは「掟(十戒)を守りなさい。」と言われます。青年は5~10戒について、みな守ってきたと答えます。
そこでイエスさまは青年に、完全になりたいなら全財産を売り払って貧しい人に施しなさいと言われます。しかし、彼はそれを拒否します。この青年は1~4戒について沈黙しています。つまり、神にすべてを委ね切ることが出来ないのです。
神以外のものに依存するところに人間の弱さ・罪があります。イエスさまは、この罪を贖うために、自らを「香りのよい供え物」として、神に献げられました。
◆ 十戒-新しい戒め
そもそも、十戒はエジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民が、エジプトを脱出した後に一つの信仰共同体としての民族の独自性を確立するために神が授けた恵みです。それはまたカナンに入ろうとするとき、この民を神の民として、この地の偶像から守るための戒めでもありました。十戒は元、民族限定の祝福です。
しかし、神の祝福(憐れみ)は一民族だけの祝福にとどまらず、この民族を通して万民に救いをもたらすためにあります。十戒はその神の祝福を人類にもたらす恵みとして、単なる律法的戒めではなく、神の愛を人々に伝える戒めでもあるのです。十戒は実行不可能な呪いの律法ではなく、万人にとって祝福の基となる戒めです。
この十戒(あらゆる掟の要約)の精神は、“神を愛することと隣人を愛すること”の二つに尽きます。<マタイ30,31他> つまり、上に向かう愛と横を結ぶ愛、これを象徴的に現しているのが、キリストの十字架です。十字架は愛を表す戒めです。
人は一人で生きられるものではなく。意識的せよ無意識的せよ、互いの関係性が不可欠です。これを聖書は愛と呼びます。愛が失われた社会は殺伐としています。それゆえ、イエスさまは互いに愛し合うことを“新しい戒め”として残されました。
◆ 神への全面的信頼-幼子への祝福
この人への愛を求める“新しい戒め”の裏づけになるのは、神への愛です。つまり、神はイエスさまの十字架をとおして、十戒における神の愛を教えられます。そして、この教えに従順に聞き従う者は、世にあって真の平安に満たされるでしょう。
では、神の国(天の国)に入る者とは誰のことでしょうか。聖書は“子供の祝福”を通して、その恵みに与る者を伝えています。<マタイ19:14> 子供は純粋に神に頼って生きる者の姿を象徴的に現しています。まだ親の加護を必要とする子供(幼子)にとって親は絶対的な存在であるように、罪の赦しを必要とする人間にとっては、神こそが正しい道・祝福された人生を守り導いてくださる絶対的な存在です。
さて、年を重ねるに従い、人は頑なになる傾向があります。生きてきた経験の積み重ねがそのようにさせるのでしょう。一方、自分の無力さを謙虚に受け止める者は、年と共により謙遜になっていきます。そういう人は、子供(幼子)のように疑いを持たずに神を慕い求めます。そのような者の上に、神の恵みと祝福が宿ります。
敬老祝福は、自分のプライドを神への信頼に変え、信仰に生きる喜びを深めつつ年を重ねて来た者への神からの祝福です。その者には自ずと、神の香りが漂います。
◆ “香りのよい供え物”となろう
イエスさまは、ご自分を“香りのよい供え物”として神に献げられました。これは、人間の罪を贖う行為であり、執り成しの祈りです。このイエスさまの十字架に従うことによって、わたしたちは救いを得ます。その時、イエスさまの香りがわたしたちにも注がれます。年を重ねる毎に、その香りで満たされる者は幸いです。