◆ 善い管理者-恵みへの忠実
現代はコンピューター社会といわれます。それは管理社会でもあります。人が安心して暮らすには、適切な管理がなされていることは必要です。しかし、管理のために人が機械的に扱われるなら、効率は良くてもその世界は実に味気ないものになってしまいます。わたしたちがこの世で求めているのは、善い管理者の存在です。
◆ 支配せよ-管理せよ
創世記1章28節に、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」とあります。この天地創造物語において、神はその創造の最後に御自分にかたどって“人”を造り、その“人”に生けるものすべてを支配することを命じられました。
この「支配せよ」という言葉は“力ずくで治めよ”ということでも、“力をもって従わせよ”とかいうような上からの強制力を働かせるというのとは全く意味合いが異なります。ここでいう「支配せよ」というのは、秩序をもって管理せよということです。人間に管理を任せるのは神です。それは神が人間に対し、神の御心を忠実に行うことを命じているのであって、人間の好き放題を許しているのではりません。
この聖書の始め(創世記)で語られる「支配せよ」という言葉は,人間に対して、地上にあるものへの責任ある態度を強く求めるものです。もし、人が神の創造の恵みを自分だけのものとするならば、神の祝福は取り去られてしまいます。現実はどうでしょうか。温暖化による地球の異変は、自己の利益を最優先してきた人間の営み(罪)の結果の表れということができるでしょう。正しい管理が求められています。
◆ 管理人に求められること-忠実な僕
さて、聖書でいう“善い管理者”とは、どんな時にも神の御心を行う者、つまり神の忠実な僕をいいます。旧約におけるネヘミヤもそのような善い管理者でした。
ネヘミヤは、荒廃した祖国復興をペルシャの王に願って許され、捕囚先のバビロンの地からエルサレムに戻ります。そこで、エルサレム城壁の修復に取り掛かりました。そのネヘミヤが戻るよりも先に、祭司エズラも帰還しています。この二人は協力して、祖国復興の足掛かりとしてのエルサレム城壁の修復を始めたのです。エズラは宗教面で民を指導し、ネヘミヤは政治的・軍事面で修復現場の指揮にあたりました。二人の目的は、神の栄光を取り戻すことで一致し、互いに支え合いました。
しかし、彼らの城壁再建を妨害しようと企む者たちが現れます。彼らは修復作業にあたる者たちを心理的に揺さぶり、攻撃を仕掛けようします。しかし、その計略は神によって見破られ、ネヘミヤは神に祈り、働く者たちは片手に武器を携えて作業を続けたのです。民の一丸となった働きによって城壁はついに完成しました。
バビロン捕囚の後のユダ再興の困難な時期、エルサレムの人たちを導いたのはエズラとネヘミヤという忠実な僕たちです。彼らは善い管理者として神に仕えました。
◆ 善い管理人-神の御心を行う人
ところで、すべての人は何らかの恵み(賜物)を神から授かっています。その恵みの最たるものは、もちろん命そのものです。この自分の命を管理するのは、その人自身です。この与えられた恵みをどのように管理し用いるか、が問われます。
この問題に関して、聖書の中に“タラントンのたとえ”というのがあります。<マタイ25:14~30> ある主人が長旅をするので三人の僕を呼び、自分の財産を分けて預けます。一人には五タラントン、もう一人には二タラントン、もう一人には一タラントン。五タラントン、二タラントン預かった者は、それを元手にしてさらに五タラントン、二タラントン儲けました。しかし、一タラントン預かった者は、これを失うことを恐れて地中に埋めて置きました。さて、主人が帰って来て早速、三人の僕に預けた財産の報告をさせます。五タラントン、二タラントン預かった僕はそれぞれを倍に増やしたことを報告し、良き僕と主人を喜ばせました。しかし、一タラントン預かった僕は何もしなかったため、主人から悪い僕と怒りを買いました。このたとえが伝えようとしていることは、人は神から委ねられた財産(救いの恵み)をどのように受け止め(管理)、かつ、用いる(伝道する)かということです。
◆ 管理に必要とされること-神の愛の上に立つこと
神はあらゆる人にキリストの福音の恵みを預けます。しかし、人によって恵みの受取り方は違います。善い管理者とは、その受けた恵みに忠実に従って生きる者のことです。しかし、この“タラントンのたとえ”は、それだけでは不十分だと告げているのです。それは預かった財産を土に埋めて置くようなものです。財産を増やすこと、つまり福音を人に宣べ伝えてこそ、神の御心に応えたということになります。神にとっての善い管理者とは、神に忠実であると共に御心を行う者のことです。
では、わたしたちがそのような善い管理者になるには、どうしたよいでしょうか。
Ⅰペトロ4章7節には、「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」とあります。この世は永遠に続くものではなく、限りがあるということが、命(恵み)を大切に生きるという自覚を生みます。又、人は一人では生きられず、他者との繋がりを必要とします。その他者との絆となるものが“愛”であることを聖書は告げています。「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆う」<同:8> 善い管理者が必要とするのは、神の御心である愛です。
イエスさまこそ、わたしたちの罪を無限の愛で覆って下さる最善の管理者です。
◆ すべてのことにおいて、愛をもって、善い管理者となろう
この殺伐とした世の中にあって、まず、わたしたち自身が自分に対して、善い管理者であることが求められます。それは、神に忠実であることと、置かれた生活の場で他者に福音を証しすることです。そのためには、キリストからの愛(救い)を十分に受けることが必要です。目の前にいつも十字架の恵みを置きましょう。