「主と共に生きる希望」 イザヤ 51:4-11 Ⅰテサロニケ5:1-11 (2013.12.1)

◆ 主と共に生きる希望(主の来臨の希望)
今日から、教会暦では待降節に入ります。希望をもって、イエス・キリストの誕生に備える時です。この備えには二重の意味があります。一つは人として世に生まれる(受肉)イエスさまを迎え入れる備え、もう一つは終末時に来臨(再臨)される復活のイエスさまを迎える備えです。いずれの備えも、主の到来の希望に満ちています。

◆ 見える希望と見えない希望-忍耐を支える力
パウロはこの希望について、「それは神の子とされること、つまり、体の購われることを待ち望むこと」であると言います。<ローマ8:23> このような希望に生きるところに、キリスト者にとっての救いがあります。パウロは目に見えるものに対する希望は希望ではない、ということ強調しています。<同:24> わたしたちの望みとは目に見えないものへの希望であり、それは忍耐して待ち望むものです。
 聖書で使われる忍耐という言葉には、苦難の時を希望をもって柔軟に受け入れていくという意味合いがあります。苦難が去るまでじっと辛抱強く耐え抜くというのではなないのです。この忍耐には折れそうで折れない、しなやかな強さがあります。では、この人間の限界を超える強さをもつ忍耐力は、どこから来るのでしょうか。
 そのような希望を伴う忍耐を支える力は、神の憐れみ(愛)から来ています。旧約聖書の中で多くの預言者が、メシア(救い主)の到来の日を神の約束の言葉として伝えています。その約束の到来する日を目には見えない希望の日として、イスラエルの民は何百年という長い年月の間待ち続けました。人間は失望しても、神は見えない希望、救済の時を確かに用意しておられました。クリスマスがその時です。

◆ 待降節の希望-光の到来 
イザヤはその時を、捕囚の民の帰還の喜びの時として預言します。神は廃墟となった神の都エルサレムを憐れみ、その地をもう一度楽園として再生させます。その日には「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」とイザヤは告げます。<イザヤ51:3>
この民の神の都への帰還は、世の暗闇の中に光が現れ出る時です。その喜びの時は、わたしたちにとってはイエス・キリストの誕生の時、救い主の到来の日です。  
イザヤはこの喜びの時に際して、「わたしの民(国)よ、心してわたしに聞け(耳を傾けよ)。」と神の言葉を伝えます。<同:4~11> 神の裁きは正義・救いとして現れ、すべての人に光となって輝きます。更に神はすべての民に、天に向かって目を上げ、神の支配されるこの地を見渡すことを命じておられます。神の救いはとこしえに続き、恵みの業が絶えることはないからです。神の正しさを知り、神の教えを心に留めるなら、人の嘲りを恐れることはなく罵りにおののくこともありません。
 待降節の希望は、光である神の御子の誕生にあります。御子キリストは信じる者には、苦難の時に奮い立つ力となります。十字架の購いによる御業を知る者は、世にあって喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去ります。そこに希望があります。
 
◆ 再臨の希望-目を覚ましていること
さて、このキリスト誕生の希望は、第二の希望と密接につながっています。それは、キリスト再臨の希望です。人として生まれたキリストは、30歳を過ぎで十字架にかかって死にました。それはわたしたちと同じ限りある命です。しかし、死んで復活したイエス・キリストはもはや死ぬことなく、永遠の命となられました。その
キリストは終末時に再臨し、世にある人々の救いを完成されるというのが教会の信仰であり、希望です。その時を聖書は“主の日”とも“その日”とも言い表します。
 福音書(マタイ・マルコ・ルカ)が共通して語るのは、終末到来に際しては徴があるということです。偽キリストの惑わし、戦争の騒ぎ、地震や飢饉などの災害、それに伴って信仰者への迫害も一段と激しくなります。しかし、マルコはその苦難の期間を神が縮めて下さると記します。<13:20> そして、世の人々にとってまさに恐怖の訪れでしかない終末、その日、人の子(キリスト)は力と栄光を帯びて到来します。<同:26> 信者にとって終末は、まさにキリスト再臨の希望の時です。
 しかし、その日、その時がいつ来るか、イエスさまも知りません。だから、イエスさまはわたしたちに、いつも目を覚ましているよう命じられます。<同:32-37>

◆ 満たされる希望-クリスマスの恵みの受容
この目を覚ましているということは、いつも寝ないで起きているということではありません。聖書はこれを、「目覚めていても眠っていても、主と共に生きること」だと言っています。<テサロニケ5:10>  つまり、どういう状態にあっても、常にすべてをイエスさまに委ねて生きる、それが目を覚ましているということです。
 わたしたちは、目に見える現実の中で生きています。良きにつけ、悪きにつけ、何か事が起こる時には産みの苦しみを味わいます。しかし、キリストと共に生きる者は“光の子”<同:5>です。心が常にイエスさまと共にあるならば、聖霊がその時々に、語るべきこと、行うべきことなど必要なことを具体的に示して下さいます。 
それは、イエス誕生に際しても神さまが天使を通して現されたことです。天使は信仰深いマリヤに聖霊による懐妊を告げ、夫となる正しい人ヨセフに天使は夢の中で、そのマリヤを妻とするよう促し、ヘロデ王を避けてエジプトに逃れること、また、イスラエルに戻る時を告げ知らせました。<ルカ1:35、マタイ1:30,2:13,19>
 神はこのキリストを通して、わたしたちが救いに与るよう定めておられます。<テサロニケ5:10> この恵みを感謝して受ける時、すでに希望は満たされています。

◆ 主と共に生きよう(主を信頼して生きよう) 
独りで何もかも決断し、行動することを求められるなら、いつか人は折れてしまうでしょう。しかし、聖書はイエスさまが共に生きて下さることを約束しています。そのためにイエスさまは死なれました。それは、時や場所の制限を越えて、すべての人の内に復活の命として働くためです。目を覚ましていて下さる方に信頼しよう。