「誘惑を退ける」 エレミヤ 31:27-34 マルコ 1:12-15 (2014.3.9)

◆ 本当の強さ
生きていく上で必要なことは、“強くある”ということです。この強さとは自分の力を誇ることではなく、与えられた命を命として精一杯生きるということであろうかと思います。信仰的にいえば、本当の強さとは、自分の力ではなく神の力に生かされる(委ね切る)ところにあります。未知の世界は神の御手の内にあるからです。

◆ サタンの誘惑-荒れ野への霊の導き
イエスさまの生涯は、人間的に見れば短いものでした。しかし、その生涯においてなされた業が後の人間の歴史を新たにすることになります。それは、宮詣の際、老シメオンがイエスさまに与えた予言の言葉通りです。「わたしはこの目であなた(神)の救いを見た・・この子(イエス)は異邦人を照らす啓示の光・・イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする・・また、反対のしるしを受ける・・。」
<ルカ2:29-35> イエスさまはイスラエルの誉れとなり、十字架で死ぬ定めです。
 そのイエスさまの公の生涯、即ち、福音宣教者としての歩みは荒れ野でサタンの誘惑を受けるところから始まります。それに先立ち、イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その際、聖霊がイエスさまに注がれました。その霊が、イエスさまを荒れ野へと送り出します。荒れ野とは神なき世界です。しかしまた、神と出会う場所でもあります。それは、この世と遮断されている地であるがゆえに、神に頼らなければ生きてはいけない世界だからです。強くなければ(神と共に歩む)、たちまち人はサタンの誘惑の餌食となり、滅ぼされてしまいます。人はそこで試されます。
 イエスさまも人として、荒れ野において、神の御心を満たすために試されました。

◆ 誘惑を退ける-御言葉による勝利 
この荒れ野において、サタンの誘惑に対するイエスさまの武器は神の言葉のみです。マルコでは簡単に、「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と記しますが<マルコ1:13>、マタイではその内容が具体的に記されています。人の命をつなぐ糧は、パンのみではなく、神の御言葉です。また、神の存在を疑う(試す)ところにサタンの罠があります。さらに、人が造られたのは神を礼拝するためであって、自分の欲を満たすためではありません。命の源について、神を試みることについて、自分の栄光を求めることについて、サタンは言葉巧みにイエスさまを神から引き離そうと誘惑しました。しかし、イエスさまはサタンに対し、終始、御言葉で対応し、「退け、サタン。」と命じられました。<マタイ4:1-11>
 そのように、御言葉によってサタンの誘惑と戦うイエスさまを神の御使い(天使)が支え、その守りはイエスさまの生涯の終わりに至るまで続きます。十字架につく前のイエスさまの祈りは、汗が血のように滴り落ちるほどの苦しいものでしたが、その祈りの時も天使が傍らで力づけています。<ルカ22:43-44> そして、十字架から降りてみよとのサタンの最後の誘惑をイエスさまは退け、死に向かわれました。

◆ 救いの創始者-大祭司として
旧約聖書は、人間は神の業を見ることにより救われたと語ってはいません。かつて、神はその業を通して、イスラエルの民を奴隷の地エジプトから救い出されました。海を二つに分けて民の脱出の道を備え、昼は雲、夜は火の柱となって民を導き、飢えた民をマナで養い、渇きを岩からの水で潤され、40年間、荒地での民の旅を守られました。しかし、民はやがてその神の業を忘れ、目に見える偶像に依り頼むようになります。それは神による救いを放棄し、国に滅びを招く結果となりました。
 しかし、神による人間救済の計画はそれで終わったのではありません。かつて、神はモーセを民の器として選び用いられたように、新しい民(教会)を導く者として、神の御子イエス・キリストを世に遣わされました。それは偉大な指導者モーセを超える救い主です。イエスは大祭司として、神に人の罪を執り成します。この大祭司は血と肉を備え、十字架で血を流し、苦しみを味わい尽くされた、わたしたちと同じ体をもった人間です。この方が世にあって、“救いの創始者”となられました。
 このイエスさまの救いは完全です。というのは、イエスさまは神の子でありながら、人として、私たち死ぬべき人間を兄弟として迎え入れてくださったからです。

◆ 新しい契約-心に刻まれる約束  
そこには、罪から離れられない人間の裁きに対する贖いとして、自らを犠牲として献げられたイエスさまの大祭司としての執り成しの姿があります。それによって、私たちは罪あるままにイエスさまの友、即ち神の子とされるようになりました。
エレミヤは、この神の赦しをイエスさまが到来する遥か以前に預言しています。
<エレミヤ31:27-31> かつて、イスラエルの民は神への背きによって「抜き,壊し、破壊し、滅ぼし、災い」に遭うことによって裁かれました。民は捕囚とされ、見も心も萎え果てました。この民を新たに「建て、植える」時が来る、とエレミヤは民に告げます。ただそれは、民の知らない遥か遠い将来に起こる回復の約束です。
 それは救い主イエス・キリストにより、新しい契約として人々にもたらされる契約です。旧い契約と新しい契約の内容に違いはありません。両方とも神に対する人間の在り方に対する教え・戒めです。その違いは旧約の教え(十戒)が石の板に刻まれたのに対し、新約は人の心に記されることです。人は内面から変えられます。
 この新しい契約は、神が人間の罪を赦すことが前提となっています。イエスさまが私たちの罪を担われることにより、神は人間の罪を忘れると言って下さるのです。

◆ この世の荒れ野で、イエスさまを求めよう
荒れ野は、神の存在が皆無と思われる世界です。しかし、そこにも神はおられることを、イエスさまはご自身、サタンの誘惑に晒される中で明らかにされました。世の全ては神によって造られました。従って、この世に神なき世界はないのです。
誘惑に満ちたこの世の荒れ野で、誘惑を退けられたイエスさまを求め続けましょう。