「神の霊が人を生かす」  ヨブ28:12~28、 Ⅰコリント2:11~3:9 (2012.8.19)

◆ 神の霊が人を生かす(神からの真理)
今年、初めてトマトを植えました。(かみさんが買ってきたので) ただ水をやっていただけなのに、成長し、時至ってちゃんと実をつけました。味は昔のトマトの味でした。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」という聖書の言葉を実感しました。人の命も、神の御手の内にあります。

◆ 不条理への問い-神の真理はどこにあるか
ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きて」来ましたが(ヨブ記1:8、2:3)、突然、耐え難い禍に襲われました。財産である家畜を全て失い、愛する子どもたちも亡くし、自らも悪性の皮膚病に犯されてしまったのです。それは理解不可能な出来事でした。3人の友人たちは慰めにやって来たものの、激しく神を訴えるヨブの言葉を聞いて、逆にヨブに罪があると責め立てることになりました。
 ヨブの神への訴えは、その不条理さにあります。神を畏れ敬い、敬虔な生活に徹して生きて来た者に、どうして神はこのような禍をもたらすのか。それは、神に対する不信の言葉ではなく、ただその理由を問うヨブの悲痛な訴え(叫び)でした。
 友人たちは、ヨブ自身も十分承知している常識的な信仰を繰り返し語るだけです。生の極限状態に置かれているヨブが知りたいのは、自分に降りかかった禍の意味についてです。それが、全能なる神の真理、神の知恵の所在への問いかけとなります。
 それは、生ける屍となっている自分の悲惨な現状への訴えというよりも、神の御心はどこにあるのかという命がけの問いといった方がよいのでしょう。ヨブは信仰を失ったのではなく、神を前提として、理解出来ない不条理を神に訴えています。
 
◆ 隠されている神の知恵-神の神秘を明らかにする霊
 人を絶望へと追いやるのは、不条理の世界から抜け出せない状況に置かれた時でしょう。人は禍に襲われる時、ヨブの友人たちのように辻褄が合うような人間的な知恵で自らを納得させようとします。しかし、それでは苦しみは増すばかりです。
 そのような痛みの内にある者に対し、聖書が語るのは神の知恵です。この世に存在する不条理、これを人間的な知恵で理解するには限界があります。科学はその原因を追究するのに、個別的分野で多くの役割を果たしています。しかし、この世界・宇宙全体を人間はすべて知り尽くすことは出来ません。それは聖書的にいえば天地(宇宙)のすべては、神の創造に成るものだかです。そこには人間の知り得ない、隠されている神の知恵があります。ヨブが苦しみの中で求めたのは、神の知恵です。
 では、人はどのようにして神の知識を理解することが出来るのでしょうか。それに対し聖書は、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださると語ります。“霊”が一切のこと、神の深みさえも究めると。<Ⅰコリント2:10> 神の神秘、つまり、この世の不条理の根本を解明するのは、“神の霊”以外にありません。
 神の知恵とは即ち神の霊です。その霊によって、わたしたちは生かされています。

◆ 見えざる神の働き-植物の成長
ヨブの訴えに対する神の応答は、人間には神の知恵を知り尽くすことは出来ない、というものでした。神の栄光に比して人間は余りに小さな存在だからです。人間に出来ることは、どのような時にも神の全能と臨在を信じ受け入れることです。この神にひれ伏した時、ヨブは苦しみから解放され、前にも増して神の祝福を得ました。<ヨブ42:12> ヨブ記において最初から示されていることは、サタン(告発する者)も神の御手の内にあるということと、ヨブの命も神の御手にあって守られているということです。不条理の中にも見えざる神は、確かに働いておられます。
パウロは、この見えざる神の働きを、植物の成長の例えで語ります。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」<Ⅰコリント3:6> この例えは、分裂状態にあるコリント教会に対して語られたものです。この教会の信徒たちの中には、「わたしはパウロにつく、わたしはケファに、わたしはアポロに、わたしはキリストに」<同1:12>と、宣教内容ではなく誰につくかということで争そっていました。人間的(肉)知識が福音の恵みを消し去り、自ら不条理を生み出します。教会に必要なのは、肉的つながりではなく神の霊の働きです。

◆ 神の愚かさ-十字架に秘められた知恵 
植物の成長は命の継続によるものであり、その働きは神に拠っています。人間はその働きに加わることによって、自らの成長に与ります。そして、いずれ肉(自然)の命は滅びる時が来ます。しかし、神の働きはそれで終わることはありません。神の真の栄光は、滅びることのない永遠の命の内にあります。では永遠の命とは何か。
 それは、滅んでいく者にとっては愚かな十字架の言葉(知恵)です。十字架のキリストは、神により復活の命-永遠の命に入れられました。その命である霊が、人を救いへと導きます。十字架は、救われる者には神の力となります。<同1:18> 
 ヨブも友人たちも、信仰に生きる人たちでした。しかし、友人たちはヨブが味わっているような身に及ぶ苦しみを経験していません。それゆえ、その信仰は観念的なものとなり、返ってヨブを苦しめるだけでした。そこに、イエスさまとの決定的な違いがあります。イエスさまもヨブと同じように罪を犯すことはありませんでしたが、神の御心に従って受難の道、十字架の苦しみを自ら選び取られました。
 ここに、神の知恵があります。それは御子キリストの命を取り去る痛みの究みに至る知恵です。この神の知恵こそが、不条理を超えて人を生かす命の源なのです。

◆ 霊が神を畏れる者を守ってくださる        
ヨハネ福音書に、姦通の女の物語があります。<ヨハネ8:1~11> 人々は誰もが罪を抱えており、姦通の女を裁くことなく立ち去りました。その女に対してイエスは言われます。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 神を畏れることを知る者は、罪を犯さない力を得ます。神の霊が守ってくださるからです。