「信仰は世に勝つ」  士師記 6:36~40、 Ⅰヨハネ5:1~5 2012.8.12

◆ 信仰は世に勝つ(信仰による勝利)
どんな戦いにも、勝利の確信が必要です。不安が先走っていては、最初から戦いにはなりません。巨人ゴリアテを倒したのは、少年ダビデです。ダビデには、神が共におられるとの信仰がありました。その信仰に対する確信が勝利の源泉です。
わたしたちは今、どこまで本気になって神に拠り所を置いているでしょうか。

◆ 神への問い-“しるし”を求める(信仰の確信)
信仰とは単純にいえば、神を信じるということです。そして、信じるということは神の言葉に従うということです。しかし、御言葉に忠実に従おうとするなら、その信仰には確信が必要です。御言葉は自分の思いを超えるところにあるからです。
実生活において信仰が生かされるのは、信仰が確信にまで至っているときです。人はその確信を得るまでに、神に対して様々な問いかけ-しるしを求めるでしょう。
 一時、イスラエルの指導者として民を率いる士師の一人となったギデオンもそうです。彼の最初の頃の信仰は、神さまの言葉にためらいを持つ弱々しいものでした。
神に背くイスラエルの悪ゆえに、神はこの民を7年間、ミディアン人に渡します。
ミディアン人を避けて、イスラエルの人々は、山の洞窟や、洞穴、要塞に住みました。いよいよ追いつめられてようやく、彼らは神に助けを求めて叫びました。
 そういう中で、ギデオンは神からイスラエルを救う勇者(士師)として選ばれます。しかし、確信のないギデオンは、神からの召命を何とか逃れようと、神に様々な“しるし”を求めます。それは、神が共におられるという確信を得るためです。
神はギデオンの求めを聞かれ、その求め通りの“しるし”を現わされました。
 
◆ イエスへの疑い-イエスとは何者か?(不信仰と真実)
 信仰に確信があれば神の臨在を疑わず、しるしを求める必要もないはずです。しかし、人間の理性は神の言葉を全面的に受け入れるほど、単純ではありません。
 イエスさまに対する人々の受け入れも同様です。人々はイエスさまの言動にただならぬ権威(神にも匹敵する)を認めつつも、その権威がどこから来ているのか分かろうとしません。この世の父と母を知っているからです。ただ疑うだけです。それは、血のつながった兄弟も同じでした。彼らはイエスに向かって、その力ある業を仮庵祭の行われるエルサレムで、公然と現したらどうかと勧めます。<ヨハネ7:3,4> それは信仰から来るのではなく、イエスを疑う不信仰から来る言葉です。
彼らは何を疑っているのでしょうか。それは、イエスは何者か、ということです。具体的には、イエスは本当にメシア(救い主)か、神の子であるかということです。
彼らは、その“しるし”として数々の奇跡(悪霊の追い出しや病の癒し等)を見ているにも関わらず、イエスを認めるどころか不信仰の極みとして十字架につけます。
 しかし、このイエスの十字架こそ、神が世に現された最大のしるしです。神はイエスを十字架の死より復活させるからです。不信仰の世に、神の真実が輝きます。

◆ 神の愛-神とイエスの一体性(勝利の源泉)
信仰の主体はこちら、人間の側にあるのではなくイエスを十字架の死から復活させた神の側にあります。そして、わたしたちにとっての信仰の確信は、イエスさまの十字架が神の真実を現すしるしとなった、ということを受け入れるところから始まります。それは、イエスが神と一体であるということを認めることです。
 これを認める時、わたしたちは初めてなぜイエスさまが十字架につかれたのかを知るようになります。イエスさまは御自身の死を通して、その命を神を知らない罪ある者に与える(赦す)ためでした。そこに神がイエスさまを通して示された愛があります。十字架は、世のすべての人に開かれた神の真実であり、愛のしるしです。
 だからこそ、わたしたちはイエスを信じることにおいて神の愛の注ぎを受けるのです。なぜなら、イエスと神は一体だからです。この神とイエスと、さらにその信仰によって立つ教会は一体となって、サタン(悪魔)の支配する“世”と戦います。
そして、この戦いは勝利の約束の元にあります。結果の分からない戦いには不安がつきまといますが、キリスト者は既に、イエスの十字架の勝利に与っています。
 その勝利の源泉は信仰の確信にあり、その確信の基こそ、変わらざる神の愛です。

◆ イエスの勝利に与る-世にある苦難(主の臨在) 
 イエスさまは、仮庵祭の近づいたユダヤに行って、自分の業を現せという兄弟たちの言葉に「わたしのときはまだ来ていない。」<ヨハネ7:6>と答えています。それは自らが十字架につく時です。その時が来ることをイエスは知っておられます。
不信仰な世にあって、イエスさまは「わたしは既に世に勝っている。」と弟子たちに宣言されました。<ヨハネ16:33> それは、自らが十字架につく以前のことです。つまり、イエスさまは御自身の受難を前にして、その戦いにおける勝利の確信を語ったのです。しかし、その勝利は容易く得られるものではありません。イエスさまは、「あなたがたは世で苦難がある。」<同>と、キリスト者といえども(であるからこそ)、様々な苦難に遭遇することを予告しています。しかし、イエスの勝利は既に十字架の内にあります。だからこそ、イエスさまは「しかし、勇気を出しなさい。」<同>と言われます。イエスさまに対する信仰が確かであるなら、その人は確実にイエスの勝利に与るからです。その勝利の裏づけは、神の臨在にあります。
 仮庵祭とは、イスラエルの民が神の約束の地に向かって荒れ野を旅したことを記念する祭りです。わたしたちも神の臨在を信じて、人生の旅路に勝利しましょう。

◆ 勝利の内に生きよう        
 詩編146編は、3節で「君侯に拠り頼んではならない。人間に救う力はない。」と人間に頼ることの虚しさを歌っています。幸いなのは、神を助けと頼み、神を待ち望む人です。<同:5> 天地を造られた神こそ、貧しい者・弱い者に目を留められる神です。神への信仰に拠り頼んで、イエスさまと共に勝利の内を歩みましょう。