「わたしが与えるパン」 箴言9:1~12、ヨハネ6:41~59 (2012.8.5)

◆ わたしが与えるパン(聖餐)
わたしが好きなパンはメロンパンです。前の記念病院の食堂で売っていたメロンパンは今まで食べたものの中で最高でした。しかし、病院が新しくなると共に、今は幻のパンとなりました。しかし、幻とならず永遠に飢えを満たすパンがあります。
それはイエス・キリストというパンです。これこそ命を養い育てる恵みのパンです。

◆ 知恵と愚かさ-命と滅び
今日の礼拝は、日本基督教団の教会歴・行事では平和聖日として守ります。過去において教団が犯した、戦争への加担の罪を悔い改め、二度と戦争を犯さず、教団(教会)が世界平和のために尽くす礎となることを祈り求める日として覚えます。
 しかし、有事の際、教団(教会)が悔い改めと平和の働きを実行し抜く謙虚さと決断と勇気を持ち続けることができるでしょうか。はなはだ心もとない、というのが実感です。それは、人間の罪の問題と切り離すことの出来ない事柄だからです。
 聖書はこの人間が抱える罪を、知恵と対比する愚かさということで語ります。知恵とは神を知ることであり。愚かさとは神に背を向けることを言います。「主(神)を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。」<箴言9:10>
 人間が犯す争いごとの根本原因には、神不在という現実があります。つまり、すべてを人間中心にしか捉えられないという事実です。真の知恵は、人間の限界を超えたところ、神の元にあります。知恵は命を基とし、愚かさは争い(滅び)の基となります。戦争はまさに、神不在を最大限に現す人間の愚かさ・罪のしるしです。
 それゆえ真の知恵は、人を神に向かわせます。そこにこそ真の平和があります。
 
◆ 知恵は命-命のパンであるイエス
箴言9:1~6で、知恵は神のための祭儀所での祭儀的食物(パン)・飲物として現されています。それは人の命を養うものであり、浅はかな者・意志の弱い者を招き寄せます。「わたしのパンを食べ わたしが調合した酒を飲むがよい。」 それによって、「浅はかを捨て 命を得る」ためです。<:5,6> ここで知恵は、命そのものです。
 かつて荒れ野を旅するイスラエルが飢えで苦しめられた時、民の指導者モーセはマナで彼らを養いました。<出16:13~15> このマナは神が天から降らせたパンです。そして、世にあって人々の贖いとなられたメシア(救い主)なるイエス・キリストもまた、人々に天からのマナ(パン)を与えます。イエスとモーセの違いは、イエスさまはパンの与え手であると共に、「わたしは命のパンである。・・わたしは、天から降って来た生きたパンである。」<ヨハネ6:48、51>と宣言されたように、御自身がパンそのものであるということ、つまり、イエスは神そのものであるということです。イエスさまのこの世へのメッセージは、このパン(イエス)を食べる者は死なず、永遠に生きるということです。このパンは世を生かす神の命です。
 この命である知恵こそ、イエスさまが世に与える廃れることのない永遠の命です。

◆ 聖餐-命に与る
しかし、世の人が知っているのはヨセフの息子としてのイエスです。それは、肉なる父と母との関係であり、父なる神との関係におけるイエスではありません。それゆえ、彼らには「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」<ヨハネ6:54> と言うイエスの言葉を理解することが出来ません。それは多くの弟子たちも同様であり、彼らは去ります。
イエスさまの言葉を理解するには信仰が必要です。それは、この世の知恵を超える神の知恵に属するものだからです。イエスの肉を食べ血を飲むこと、それはイエスさまと完全に一体となることを言い表す言葉です。霊的な交わりともいえます。
それを目に見える形として現すものが、聖餐といわれる聖礼典です。この聖餐において、わたしたちはイエスさまの肉と血に与ります。そこで真の命に与ります。
パウロはこの聖餐を、十字架を前にしたイエスさまが弟子たちと共に過ごした晩餐の出来事として記しています。<Ⅰコリント11:23~26> キリスト者は聖餐において、パンをイエスの引き裂かれた体、杯をイエスの血によって立てられた新しい契約として、これを主の来臨(終末)に至るまで記念として、継続して行い続けます。

◆ 神の憐み-共に頂く恵み 
さて、この「新しい契約」という言葉は、命に与る者(救いに与る者)には真に大きな意味があります。この契約を守ることを放棄するなら、もはやキリスト者とはいえません。では、この「新しい契約」が意味するところは何でしょうか。
イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」<ヨハネ15:12> と言われました。そのように、互いに愛し合うということが、「新しい契約」の内容です。ただ、この契約を守ることは容易なことではありません。それは、究極的には自分の命を与え尽くすことだからです。実際、イエスさまはこの契約の保証として、ご自身が十字架につかれました。そして、この十字架においてキリストの父なる神は、無限の愛を示されました。
今日の交読詩編78編に、「口をもって神を侮り 舌をもって欺く 心定まらない 契約に忠実ではなかった」<36,37> イスラエルに対する神の憐みが謳われています。
神は彼らの罪を贖われ、滅ぼすことなく繰り返し怒りを静められました。<:38>
この罪の贖うために、御子イエス・キリストが世に遣わされました。それが神の知恵であり、そのために御子の命を代償とされました。神の知恵は即ち主の命です。

◆ 真の愚かさに徹しよう        
 世の愚かさと信仰の愚かさは、全く意味が異なります。前者は滅び(死)を来たらせ、後者は生(命)をもたらします。世に争いが絶えないのは、命の根源である神を知らない愚かさ、から脱しようとしない人間の罪に拠ります。わたしたちは、この平和聖日を真の愚かさを知る時として、畏れをもって共に聖餐に与りましょう。