「模範とすべき祈り」 列王記上18:30-39 マタイ6:5-15 (2013.5.5)

模範とすべき祈り-イエスの祈り
わたしたちは何かを身につける時、模範とすべきものを探します。いい加減なものを模範とするなら、いい加減なものしか身につかないでしょう。祈りにおいても
同様です。わたしたちが模範とすべき祈りは“主の祈り”です。この祈りは、まず神と人間との関係を正した上で、わたしたちの必要を祈ることを教えています。

◆ 祈りの戦い-真の神と偶像の神
わたしたちは自分の内にあるもの(喜びや悲しみや苦しみ等)を、誰かに打ち明けて、これを聞いてもらおうとします。相手が神であれば、祈りとなります。その祈りの対象である神が真の神ならば慰めを得ますが、偶像の神なら結果は惨めです。
 北イスラエルに干ばつがあり、エリヤとバアル預言者たちが雨を降らすための祈りの戦いをカルメル山上で行いました。<列王記上18章> バアル預言者は築いた祭壇の周りを跳び回って、朝から昼まで「バアルよ、われわれに答えてください」とバアルの名を呼び続けましたが、何の答えもありませんでした。次にエリヤも祭壇を築き、薪を並べその上にいけにえを置き、水を注ぎかけます。そして、イスラエルの神に祈りを献げると、主の火が降っていけにえを焼き尽くし、祭壇の溝の水をもなめつくしました。その後、その地に激しい雨が降り、干ばつが終わります。
 この物語で、バアルというのはパレスチナやシリアで礼拝されていた男性神で土地や家畜の生産力を支配する農耕の神です。それは人間が作り出した神、偶像の神
です。一方、エリヤの神はアブラハム、イサク、イスラエルの神、生ける神です。
 真の神に祈る(礼拝)か偶像の神に祈るかで、人間の祝福は大きく左右されます。

◆ 祈りの実践-注意すべきこと        
さて、ユダヤ社会には信仰上、三つのなすべき徳目がありました。それは、“施しと祈りと断食”です。この三つの徳目には共通の注意すべき事柄があります。それは、偽善的であってはならないということです。信仰の実践は人からの賞賛を求めるものではありません。その徳目は、人に見せるためではなく、また自己満足のためでもなく、隠れてなすべきことです。イエスさまは信仰の実践について、神からの報いも人からの評価も計算しないことを厳しく求めています。<マタイ6:3>
その中で祈りに関していえば、イエスさまも敬虔なユダヤ人と同じく、事ある毎に父なる神に祈られました。それはユダヤ人にとって小さな時から身についた実践的祈りです。イエスさまはその祈りについての心得を、特に弟子に教えられました。
一つは、偽善者のように形式的な祈りになってはならないということです。彼らは人からの賞賛を期待して、人目につくところで手をあげて祈ります。それに対しあなたがたは人目につかないところで、隠れた神に祈りなさいと教えます。また、異邦人のように、長々と祈る必要はないということです。神は祈る者の必要を願う前からご存知だからです。祈りは神の前に真実をもって、簡潔に献げるものです。
 
◆ 弟子に与えられた祈り-主(イエス)の祈り
そして、「こう祈りなさい。」と祈りの模範を弟子たちに教えられました。つまり、この主(イエス)の祈りと呼ばれる祈りは、弟子にしか祈れない祈りだということです。主の祈りは、信仰なくしては祈れない祈りなのです。イエスさまの弟子でなければこの祈りの内容を正しく理解することは出来ません。理解なしで、いくらこの祈りを祈ってもそれは単なる呪文でしかなく、そこには真の慰めはありません。
 主の祈りの内容を要約すれば、前半の三項目と後半の三項目となります。前半は父なる神の御名への讃美(神の国をほめ称えること)から始まり、その神の国の栄光が地上にも成るようにとの祈りです。その後で、わたしたちの必要を願う祈りが続きます。即ち、今日の糧を求め、罪の赦しを願い、誘惑から守られることです。
 この祈りの中に、祈るべきことが簡潔にかつすべて網羅されています。「御国が来ますよう」にとの祈りは、過去から現在、未来にわたる神の変わらざる支配を感謝しつつ求める祈りです。イエスさまの宣教の中心はこの“神の国”にありました。
 また、この祈りの中で大切なことは、この祈りはすべて“わたし”ではなく、“わたしたち”の祈りであるということです。祈りは常に他者を念頭に置いています。

◆ 祈りの前提-赦し
このように、主の祈りが祈る者の独占的な祈りとなり得ないのには理由があります。それは、この祈りは人間の罪に対する神の赦しを前提としているからです。
 どのような人間も“罪”を内に抱えています。この罪とは強盗や殺人といった、面に出るいわゆる犯罪といわれる罪とは違います。むしろその根源にある悪の根のようなものです。この悪の存在を人間は自分で取り除くことはできません。それは聖なる神の愛に敵対する憎しみや呪いの力として、わたしたちの内に存在します。
 十字架はその悪の力を象徴的に現しています。人間は、神の子として世に遣わされたイエス・キリストを十字架につけて殺しました。この出来事こそ、逃れることの出来ない人間の罪を映し出すものです。これは、遠い昔に起きた他国人による出来事ではなく、十字架を無視するわたしの罪の問題として常に立ち続けています。
 神に敵対する者は滅びるしかありませんが、この罪に対する赦しをイエスさまは“主の祈り”を通して教えられました。「わたしたちの負い目(罪)を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 人間の罪の赦しをもたらす方こそ、イエスさまです。主の祈りにはイエスさまの命がかかっています。

◆ 祈りにおいて、今日の糧に与りましょう      
わたしたちに必要なのは、今日の糧です。かつて荒れ野を旅したイスラエルの民が飢えで苦しんだとき、神は天からマナという食べ物を降らせました。それは、民一人につき、一日分だけの量です。それ以上集めても腐るだけでした。わたしたちが必要とする糧も、その日の分だけで十分です。主の祈りはそれを教えています。