◆ 天に上げられる主-キリストの昇天
昇天とは、一般的に死ぬことを意味するものですが、キリスト教では特に、キリストが復活し、天に昇ったことをいいます。それは単に天に昇って栄光を受けるためだけではなく、神の右の座にあって神の力(聖霊)を信じる者に授けるためです。また、世にある者に罪の赦しを与え、さらに宣教の力を授けるためでもあります。
◆ 復活者の出現と昇天-別れの時(過去から未来へ)
イエスさまは復活者として、「平和があるように」との挨拶と共に、弟子たちの間に現れました。<ルカ24:36> しかし、彼らは亡霊かと思い恐れおののきます。そこで、イエスさまはご自分の手と足を見せ、まだ信じられないでいる彼らと共に食事をします。ここに、事実を見ても、言葉を聞いても、信仰がなければその事実を認知することが出来ない人間の姿があります。復活者(イエス)は体を見せ、共に食事をすることで、十字架で死ぬ前のイエスさまと同じであることを表しています。
そして、この復活者の出現は弟子たちとの地上での最後の別れの時となります。それはイエスさまと共にあった過去を思い起こさせ、また未来において弟子たちのなすべきことが示される時でもあります。つまり、共に食事をすることで弟子たちは、最後の晩餐を頂点とする死ぬ直前までのイエスさまとの交わりを思い起こします。また、その場でのイエスさまが語られる言葉を通して、弟子たちは全世界の人々への宣教派遣の使命を与えられます。別れは過去から未来への新たな始まりです。
イエスさまは、最期の旅となったエルサレムの近くのベタニヤで昇天されました。
◆ 神の計画性-聖書の実現(キリストの復活と高挙)
イエスさまが前もって弟子たちに話しておられたことは、ご自分についてモーセ律法・預言書・詩篇に書かれていたすべてのこと(受難、死と復活)は必ず実現すると言うことです。<ルカ24:44> 。それは、人間救済への旧約以来の神の計画性を示すものです。その救いの出来事は、イエスさまの昇天を通して実現します。
旧約聖書においての昇天の記事としては、神と共に歩んだエノク<創世記5:24>や、神の預言者エリヤの昇天<列王記下2:11>があります。さらにユダヤ教においては、バラク、エズラ、モーセ、ゼファニア、アブラハム、イザヤ、アダムなど多くの人物が昇天したと信じられています。これらの昇天とイエス・キリストの昇天には、明らかな違いがあります。それは、キリストの昇天はキリストへの信仰告白の重要な要素となるということです。それは、神の国の支配者としてのキリストの再臨を決定づけるものです。この再臨信仰においてキリスト者は、昇天し神の右に座すキリストが神の権威をもって全世界を支配するという信仰告白をします。また、キリスト者は終末(再臨)にいたるまで、世界宣教への委託を受けます。パウロは「十字架の死にいたるまで従順であった」キリストの、この世への降下と天への高挙(昇天)を、信仰告白の重要な要素として語りました。<フィリピ 2:6~11>
◆ 心の目を開く-罪の悔い改め(キリストの証人となる)
さて、弟子たちはイエスさまの復活という事実を見ても、またイエスさまの言葉を聞いても、その真の意味を理解することが出来ませんでした。人間の側からイエスさまを理解するには限界があります。見ていることの意味を理解し、御言葉を正しく解釈するには、イエスさまからの働きかけが必要です。そこでイエスさまは彼らの心の目を開かれました。そのようにして、ようやく弟子たちは「メシアが苦しみを受け、三日目に死から復活する」との聖書の御言葉を悟ることになります。
それは、イエスさまは人間の救いのために神の権威をもって世に降られたということです。それは、イスラエル(ユダヤ人)という一民族の救いの枠を超えた宣教の働きです。イエスさまの世にあっての働きの多くは、安息日における癒しのように民族の枠を超えるものでした。そのために、世の権力者によって殺されたのです。
復活のイエスさまは弟子たちに、改めて、イエスの名によって悔い改めるなら罪が赦されることと、その救い(福音)を全世界の人々に伝えることを命じられました。
弟子たちはこのイエスさまの証人です。それは、イエスさまが聖霊の働きを通して、今も世界宣教の原動力として働いておられることを証しする者ということです。
◆ 別れの祝祷-宣教開始の備え(礼拝)
イエスさまの働きは、昇天し神の右に座すことで終わるのではありません。弟子たちに父から約束されていたもの、つまり聖霊を送ること、それこそがイエスさまの宣教の働きの頂点です。この聖霊を注がれて初めて弟子たちは、イエスさまの宣教命令を果たすことが出来ます。聖霊の注ぎこそが宣教開始の備えとなるのです。
そのためにイエスさまは弟子たちに、高いところからの力-聖霊に覆われるまでは、都(エルサレム)にとどまっていなさいと命じられました。<ルカ24:48> この言葉は使徒言行録2章1節以降の聖霊降臨物語につながります。言われた通り、弟子たちはエルサレムにとどまり、婦人たちやイエスさまの兄弟たちと共に心を合わせて熱心に祈る中、5旬節の日が来て聖霊が弟子たち一同を覆うことになります。
さて、イエスさまは昇天するに際して弟子たちをエルサレム近くのベタニヤに集め、そこで手を上げて彼らを祝福されました。これはイエスさまの最初で最後の弟子たちへの祝祷です。彼らを祝福しつつ、イエスさまは天に上げられていきました。弟子たちにはもう不安も疑いもありません。彼らはイエスさまが何者であったかをすでに悟ったからです。彼らは心からの礼拝を献げた後、エルサレムに戻りました。
◆ 平和の絆で結ばれ、愛による一致を保とう
イエスさまは弟子たちを宣教に遣わすにあたり、どこかの家にはいったら、まず、「この家に平和があるように」と挨拶するように言われました。そして、復活されたイエスさまは、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」との言葉をかけます。<ルカ24:36> この平和こそが神の御心であり、これを満たすのは愛です。