「神の家に座すイエス」 ゼカリヤ 8:1-8 ルカ 2:41-52 (2014,1.5)

◆ 最も心安らぐ時、所
わたしたちにとって、最も心安らぐ時とはいつでしょうか。それは当然、自分の好きなことをやっている時や気にいった場所に居る時でしょう。しかし、いつでもそのような時、場所を得られるとは限りません。むしろ、心の落ち着かない場合が多いかもしれません。聖書が常に指し示しているのは、真の平安のあるところです。

◆ 祭りの中での出来事-イエスを見失った両親の心配
 日本では、新年には初詣という慣習があります。いわゆる神社参拝です。そこで拝まれる神は、その実態が曖昧な偶像神です。その神に向かって人は、お賽銭を投げ、願い事をします。それに何の疑問を持たないというのが日本人の普通の姿です。
 しかし、聖書の神は創造神です。イスラエルの人々はこの神にひれ伏し、賛美の祈りを献げます。この神の臨在するところとして神殿が崇められました。イスラエルには、多くの祭りがあります。毎週の祭りとして安息日がありますが、エルサレム神殿を中心とする盛大な年の祭りとして、過越祭(除酵祭)、七週祭(五旬祭)、仮庵祭(刈り入れ祭)があります。この三大祭りにはユダヤ人成人男子は参加する義務を負うていました。また、世界に散らばったユダヤ人たちは、年に一度、一生に一度の願いとして、これらの祭りを祝うために巡礼の旅をしてやって来ました。
 イエスさまも12歳になった時、過越祭を祝うために初めて両親・親族・近所の人たちと共にエルサレムに上りました。まことに賑やかで晴れがましい旅です。しかし、この楽しかった神殿詣は、その帰路において問題が発生しました。一行の中に、イエスがいなかったのです。両親は慌て、人ごみの中を引き返しつつ捜します。

◆ 神殿の境内でのイエス-イエスの振舞いに対する驚き 
この祭の期間、都詣での旅は一族郎党だけでなく他の団体も一緒なので、一端迷うと捜し出すのはさぞ困難なことだったでしょう。両親がわが子を見つけ出すのに三日間かかったというところに<ルカ2:46>、この祭の賑わいが想像出来ます。
両親がイエスさまの姿を発見したのは、全く予想もしなかったエルサレムの神殿の境内の中でした。イエスさまは学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりして、真に堂々と振舞っています。母マリアは深い安堵とともに、激しい怒りに駆られたようです。厳しくイエスを叱責します。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです。」<同:48>
 両親の驚きはイエスさまが一人で神殿の境内にいることでした。また周りを取り囲む人々にとっての驚きは、まだ子どもであるイエスが権威ある大人の学者たちに混じって対等に議論していることです。迷子の子どものとる振舞いではありません。
 イエスさまにとって、母の叱責は心外でした。イエスさまにとっての父とは、神殿に臨在する神その方であったからです。そこでイエスさまは「わたしが自分の家にいるのは当たり前」のことである言われます。<同:49> 可愛げのない子です。
  
◆ 福音の萌芽-神殿に座すイエス
しかし、イエスさまの言葉をマリアは深く受け止めました。そもそもイエスを宿したのは聖霊によります。生まれる前から、イエスは不思議の子でした。また、両親が初めてその子を神に献げるためにエルサレムに上った時、シメオンという老人がイエスを見て喜ぶと共に、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対をうけるしるしとして定められています。― あなた自身も剣で心を刺し貫かれます・・」と予言しています。<同2:34,35>
 このシメオンの祝福はイエスさまの十字架を予言し、実際、時が来てマリアは、神の子であり息子であるイエスが十字架の上で死ぬのを見上げることになります。
 この十字架を遡ると、少年イエスがごく自然に当たり前のように、神殿の境内で学者たちと話しあっていたという光景と結びつきます。つまりイエスさまにとって神殿は、人間としての家同様、イエスさまの居場所でもあるからです。というより、イエスさまの帰っていくところは、神殿に象徴される神の家(天)に他なりません。
 そこから、イエスさまは復活の命として弟子たちに望むことになります。それが
福音の喜びです。神殿でのイエスさまの内に、すでに福音の芽生えがあります。

◆ 福音宣教-喜びが動機
このように、イエスさまは神の子としての片鱗を神殿での出来事で見せておられます。その一方で人の子としてのイエスさまは、両親と共に故郷のナザレに戻り、その地で両親に仕えて暮らし、成長します。その恵まれた少年時代を聖書は、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」と記しています。<同:52>
このような人の子としてのイエスさまは、神の愛とそれを実現する人の愛を十分に受けて成長したことが伺えます。この神の愛と人の愛で満たされたイエスさまの命を、やがて人間は自らの憎しみ(罪)で捨て去ることになります。しかし、人の命はいずれ失われます。イエスさまの死は、本質的には自らの意志で選んだものです。それは、復活による永遠の命を世の人々にもたらすためです。それが福音です。
 ゼカリヤはそのことを預言しています。メシア(復活の主)が来られた時、広場には再び、老爺、老婆が座し・・わらべとおとめが溢れる。<ゼカリヤ8:4,5>
パウロはこの福音到来の喜びを世に伝えることを生涯の喜びとし、どんな苦しみも辱めも厭いませんでした。彼の宣教の動機は、神の喜びに与るという純粋な使命感にあります。それは、少年イエスさまが無心に神殿に座していたことに通じます。

◆ 福音の内に真の喜びを見出そう 
福音(キリストによる救い)には、人をこの世にあって神に向かわせる力があります。イエスさまはわたしたちに、福音を携えてこの世に出て行くよう、促しておられます。この世は、いつも安住の地であるとは限りません。それでも世に出て行くのは、イエスさまの内に安住できる場を、わたしたちは見出しているからです。