「信仰」の実り」 申命記 30:11-15 Ⅰペトロ 1:3-12 (2014.1.26)

◆ 信仰の実り
人がキリストへの信仰を持つようになるのは、まずこれを伝えてくれる人がいたからです。聖書には「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」。<ローマ10:17> とあります。信仰の実り、即ち救いの出来事は、福音(キリストによる救い)を聞いて、信じるところから始まります。

◆ 身近になったイエスの宣教-イエスの権威を認める悪霊
わたしたちがその福音の言葉による救いの宣言を聞くのは、教会(の礼拝)においてです。そして、その教会の基となっているのが、イエス・キリストに他なりません。今、世界中に存在する教会は、世にあってキリスト御自身による宣教活動から一歩を踏み出し、今に至り、終末に向かっています。救いの言葉は身近にあります。
 イエスさまは、その身近さを宣教の始めより具体的に示されました。神の国の福音を単に言葉だけではなく、悪霊を追い出すという仕方で人々に示されたのです。
 ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人の漁師を弟子としたイエスさま一行は、ガリラヤ湖の北西に位置するカファルナウムという町に着きました。安息日に会堂に入ったイエスさまは、そこで教えます。これを聞いた人々は非常に驚きました。イエスさまの語る言葉には、権威があったからです。その言葉によって、イエスさまは汚れた霊に取りつかれた男から、悪霊を追い出されました。<マルコ1:26>
汚れた霊はイエスさまの権威を知っていて、恐れます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。・・正体は分かっている。神の聖者だ。」<同:24> イエスさまは、世を支配する悪霊を滅ぼす権威をもって、人々の生活の中に身近に入って来ました。

◆ 祝福と呪いの言葉-あなたの口と心にある 
イエスさまの言葉がもつ権威は、神から来ています。天地万物は、この権威ある神の言葉によって創造されました。人間も神の創造により存在しています。それは、人間は神なくして存在し得ないということです。神は人間にとって命の根源です。
 人間はこの神に無知であるか、あるいは無視しようとします(=罪)。しかし、神の御心は、そのような罪ある人間への憐れみで満ちています。旧約聖書はイスラエルの民を、そういう罪ある人間を代表する者として語ります。歴史の中で、そのイスラエルの民が寄留地であるエジプトから脱出し、神の約束の地に入るにあたり、神の救いを確認するのが申命記です。この書での神の言葉は権威に満ちています。
 もし民が神を愛し、その御言葉に聞き従うならば、神は民にとって祝福(命と幸い)となります。しかし、心変わりして他の神々にひれ伏すなら、呪い(死と災い)が民を覆います。民に求められるのは、律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、神を愛し、神に立ち帰ることです。<申命記30:10>
 では神の御言葉は遠く天に、または地の果てにあって、人の手の届かないところにあるのでしょうか。そうではなく、御言葉は「あなたの口と心」にあります。つまり、神からの呼びかけはいつも「あなたのごく近くに」あるのです。<同:14>

◆ 信仰の実りに与る-生き生きとした希望
そのように、神は御言葉によって私たちと交わりを持つことを願っておられます。
今、神はその御言葉の権威を旧約の律法に代わり、御子キリストの福音宣教に委ねられました。福音の言葉は、教会を通して私たちにいつも身近に語られています。     
 この福音はわたしたちに「生き生きとした希望」を与えます。<Ⅰペトロ1:3>
“喜ばしい訪れ”を意味する福音には、キリストの死からの復活という裏づけがあるからです。復活には、この福音に与る者に新しい命を得させようとする神の豊な憐れみがあります。洗礼とはキリストと共に死に、キリストと共に復活することですが、人はこの復活に与ることによって信仰の実り、即ち救いの恵みに与ります。
 この恵みは、世の財産のように失うことを心配するようなものではなく、「朽ちず、汚れず、しぼまない天に蓄えられた財産」です。この財産の継承者となることを福音は私たちに告げています。それは、終末において明らかにされます。信じる者はキリストが受けた栄光(新しい復活の命)に、共に与るのです。<同1:4-5>
私たちは、自分の力でこの希望を持ち続けることは出来ません。それはキリストを通しての神への信仰から来る希望です。私たちの信仰を守るのは神の力です。

◆ 福音の恵みに至る試練-聖霊の導き
 キリストの福音の言葉は、どんな人にも分け隔てなく語られます。その言葉には、私たちを根底から新しく造りかえる力(権威)があります。しかし、この恵みを受けようとする者には、試練が臨みます。イエスさまは弟子たちに、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。<マルコ8:34他> それは、信じる者には十字架、即ち試練は避けられないということです。というより、試練は信仰を練り清め、本物とするために不可欠の要素であることを聖書は告げています。試練を最後まで耐え忍んだ者は、キリスト再臨の時、神がキリストに与えた賞賛と光栄と誉れと同じものを受けるのです。
 それが、信仰の実りとして受ける魂の救いです。<Ⅰペトロ1:9> 私たちは汚れた霊を追い出してもらった男のように、直接イエスさまからの力をいただくわけではありません。しかし、イエスさまの宣教の言葉は今も、これを信じて生きる者には効力があります。旧約の預言者たちは、このキリストによる救いの時の到来を、私たちに啓示(指し示す)しています。聖霊が救いの力として、今も働いています。

◆ 今日、共に御言葉に聞き従おう
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前におく。」と神は言われました。<申命記30:15> 今日という時は、幸いな時とも災いの時ともなります。
今日という日は、御言葉に従ってイエスさまと共に歩むか、自分の道を行くかの決断の時です。どちらが祝福に至るかは自明のことです。共に御言葉に従いましょう。