「幼子を拝む」 イザヤ 49:1-113 マタイ 2:1-12 (2013.12.29)

◆ 幼子を拝む(東方の学者たち)
車で知らない場所へ行くときは、地図で何度も確かめます。今は全く知らない土地でも、声で指示を出してくれるナビゲーターを頼りに、どこにでも行ける時代です。イエスさまの誕生の際、遠い東の国からやって来た学者たちをその産屋へと導いたのは星の輝きでした。この光こそ、時と場所を知らせる確かな“ナビ”です。

◆ 星が知らせる救い主の誕生-異邦人の占星術の学者たちに!
 聖書が語る東方の国とはバビロンあたりでしょうか。この地は占星術が盛んです。占星術の学者は星の運行を調べ、その動きによって世の様々な変化を予測します。そのためには深い天文学の知識が必要です。彼らは、学者であるとともに、宗教家でもあります。彼らは日々、星を観察しているうちに、ある日西の空(ユダヤの方角)に異様に輝く星を見つけました。その星に救い主(メシア)誕生の知らせを汲み取った学者たちは、早速、その救い主を拝もうと、星の光を頼りに出かけます。
 この物語で星は、救い主の生まれる場所と生まれる時期を知らせます。星は学者たちに、救い主の誕生を逆算して知らせたことになります。多分、相当な時を費やしたことでしょう。(アルタバン物語では何十年もかかって、ユダヤに到着します)
不思議なことに、ユダヤの王として生まれるメシアの存在を、当のユダヤの国の人たちは知らないのです。それを知ったのはユダヤ人からみれば、異邦人であり星占いをする汚れた職業に携わる者たちです。星(神の御心)は何故、メシア誕生という喜ばしい知らせを、御自分の民には隠して異邦人たちに知らせたのでしょうか。
 それは、神の救いは民族の制約を越え、全世界に及ぶことを知らせるためです。

◆ ヘロデ王への知らせ-不安と嫉妬心を煽る救い主の誕生 
 東方の学者たちはエルサレムに来て、「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と問います。これを聞いたユダヤのヘロデ王とエルサレムの住民は不安に駆られました。ヘロデは自分以外に王の座を狙う者は身内であろうとも、徹底的に粛清してきました。それが外国の者たちからヘロデ以外の王の誕生の知らせを聞いたのです。面白いわけがありません。人々はヘロデ王の残忍さをよく知っています。おそらく、ユダヤの町は今後何が起こるかと、不安と恐れに満たされたことでしょう。
 ヘロデは聖書(旧約)にくわしい祭司長や律法学者たちを集め、メシアの生まれることを記した預言箇所を問いただします。彼らは即座に、それがミカ5章1節の言葉であると答えます。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決して小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」 東方の学者たちは、まさに今、その預言が成就したことをユダヤの人々に知らせています。しかし、ヘロデ王の心は不安と嫉妬が渦巻きます。
 星はユダヤの国の上にも輝いたはずですが、ユダヤの人々は気付きませんでした。
  
◆ 最終的星の導き-学者たち、幼子を礼拝する
 ヘロデは学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、生まれた場所を知らせるように言って、ベツレヘムへ送り出します。「わたしも行って拝もう。」
 ヘロデにとって、拝むことは殺すことを意味しています。自分以外に王となる者は抹殺の対象でしかないからです。しかし、生まれて来る子はメシアなる王です。ここに、人間としての王と神の子としての王が存在することになります。一方は地上にあっていつかは滅び去る王であり、一方は永遠に世を支配する真の王です。人々がヘロデを礼拝するのは、単なる恐怖からにすぎません。しかし、メシアなる王はその栄光が讃えられる存在です。人々が心から礼拝を献げるのは、救い主として真実を曲げず正しい裁きを行い、貧しい者を富ませ、虐げる者を打ち砕かれる王です。
 東方の学者たちが、国や習慣を超えて万難を排して礼拝を献げるために旅して来たのは、生まれてくる子が礼拝するに値する王であることを知っていたからです。
 それは、幼子への献げ物に明らかです。彼らは、王への贈り物として黄金を、神への贈り物として乳香を、そして埋葬の時に用いる没薬を献げました。つまり、それらの贈り物は、幼子が将来、永遠に世を支配する王となり、神としての権威を備え、そして十字架で葬られる運命の下にある王であるということを現しています。

◆ 夢のお告げ-別の道を通らせる
 幼子に会って礼拝するという目的を達した学者たちは、自国への途に着きます。しかし、夢のお告げによりヘロデのところへは寄らず、別の道を通って行きました。
ここに、わたしたちは神の御守りをみます。人間の企みに満ちたヘロデの道は、一見、華やかで見かけの良い道であっても、その中身は偽善と残虐性に満ちた滅びの道です。神は学者たちに星の光をもって救い主の誕生を知らせ、今度は夢の中で別の道を教えます。その道を歩む学者たちは、救い主に出会った喜びと感謝に満ち溢れていたことでしょう。メシアを拝するという期待をもってユダヤの地を訪れた学者たちは思い残すことなく、自分たちの国に帰って行きます。彼らは、すでにメシアに会ったのです。彼らの人生は、与えられた生活の場で日々、その恵みを中心としたものへと変えられることでしょう。神が彼らの求めに応えられたからです。
 わたしたちの“歩む道”は、どんな道でしょうか。自分の思いを優先する道でしょうか、あるいは神が示す道でしょうか。イエスさまの道は十字架の道です。決して容易な道ではありません。しかし、その道こそ王の道であり、聖霊によって導かれる道です。その道を日々、真剣に求め続けることの大切さをこの物語は教えます。

◆ 最高の贈り物をもって、イエスさまを礼拝しよう。 
わたしたちにとっての最高の贈り物とはなんでしょうか。黄金・乳香・没薬、確かにそれらは高価な宝物です。しかし、神の喜ばれる贈り物は他にもあります。それは自分が今、最も執着しているもの(命)を手放して、神に献げるという礼拝です。